「不思議だ」の日記【世界を蘇らせる魔法使い】

Assy(在導万創)のブログ。デザイナー見習いの作家です。小説と詩集と日記を書いています。

2019-08-14

自分が治らないのは、抑圧で精神を治そうとしているからである。
抑圧で精神を治そうとしても、分裂は治らない。抑圧でなく精神を治そうとすれば治る。
世界も同じで、世界を治したいのであれば、抑圧で治そうとしても治らない。抑圧以外の方法で治せば、この世界は治る。
日本人が狂っているのは、僕が融和という名の抑圧で言葉で精神を治したからである。
言葉と精神、言葉と経験を照らし合わせなさい。現実と言葉を照らしわせることで、全ては融和できる。
ものごとを、強く信じすぎないこと。それはそうかもしれないが、そうじゃないかもしれない。それなら別の何かかもしれない。そのように考えれば、反省できる。そのように反省しなければ分からない。否定の可能性を考えることで、別の可能性を考えられるようになる。それが正しいものごとの信じ方である。
僕は、この世界を、抑圧のない健全な社会にする。
そもそも、僕が狂っているのは、全部抑圧のせいである。ここに、その抑圧を全て書く。
まず、小学校では楽しくたくさんの友達を持っていた僕だが、中学に入って、友達の数がめっきり減ってしまった。僕のクラスに友達はあまり居なかった。
今まで友達だった人と離れて、初対面の人たちとクラスメイトになった僕は、彼らとのコミュニケーションを拒んだ。
結果、僕は友達をあまり作らなかった。何人かの友人はできたが、僕はクラスメイトからからかわれいじめられる対象となった。
僕は、挙動不審の天然な子供で、挙動をからかわれたり、いじられたりしながら、スクールカーストの下として扱われるのが辛かった。特に、男にチンコを触られたり、さまざまな嫌がらせをされることが、とても嫌だった。
自分でも気づいていなかったが、当時の僕はまるで女みたいな男で、トランスジェンダーのような子供だった。だから、男とも女とも付き合いたくなかった。
僕は学校の勉強そのものは好きで、荒れたクラスだったが、代議員になってクラスメイトのみんなを指導し、教師の言うことを良く聞いて勉強する秀才だった。当たり前のように勉強ができてテストも上位の成績を取っていたが、その裏にはたくさんのテスト勉強の努力があり、そうした勉強を続けることが重荷になっていった。中学二年の最後には、テストがどうでもよくなって、勉強しなくても、まあまあの成績を取っていた。
また、剣道部に慣れることができなかった。小学校の頃駅伝の大会に出ていた僕は、持久力があり、剣道部の持久走が好きで、いつも1年生の僕が3年生よりも上だった。だが、剣道部では技が無く、いつも試合でも練習でも負けていて、剣道部の才能が無かった。他の部員が初段の試験に受かった時に僕は落ちたし、後輩の部員にきちんと教えることもできなかった。
こんな僕は、小学校の頃からテレビゲームが好きだったこともあって、ネットゲームにはまりこんだ。現実の友達よりも、ネットの友達の方が好きだった。
本当のことを言えば、自分はいじめられていただけではなく、小学校の頃から親友だった一人のいじめに加担もしていた。決して、良い人間ではなかった。
中学三年で、僕は学校の全てがいやになって、中学校に行くのをやめて不登校になった。だが、それは「学校が嫌だった」のもあるが、「ネットゲームのようなコンピュータ技術を学んで、PerlCGIやブラウザを作りたい」という、少しばかりの「プログラマになるための夢」があり、そのためには中学校に行っていたのでは時間の余裕がない、と思ったからだった。僕は、家でパソコンの勉強をしたかった。
そして、僕は不登校になって、風呂にも入らず、歯磨きもせず、昼夜逆転の生活をしながら、パソコンとインターネットを見ていた。
Delphiというプログラミング言語の開発ツールを買って、OpenJaneを改造していたが、ここで「実際のコードを書くのはつまらない」ということに気付き、さまざまなフリーソフトWindows 2000にインストールしたりしながら、LinuxというオープンソースのOSに興味を持った。
そして、Linuxのオタクになった僕は、ネットでエロいアニメ画像を見ながら、引き篭もりのネット少年としての青春を生きた。LinuxWindowsの戦いはLinuxをみんなでいじめるばかりで、僕はここできっと抑圧の地獄に堕ちたのだと思う。Linuxオープンソースを応援するのは、とても辛かった。Wikiに文章を書いていたが、何ひとつ分かっていない自分が書いたLinuxの文章は、最悪だった。だが、僕はこのWikiで、Linuxのシステムのことを書いていた。Gentoo Linuxのインストールバトルで、Linuxのシステムがいくらか分かった僕は、WikiLinuxの仕組みを書くようになった。
僕は、高校に行くことを拒否したが、父親は僕を不登校の児童専門の高校に入れた。僕は、ここで高校に行くことを拒否し、高校に行かないのが悪いだけなのに、高校に入れた父親に「父さんが悪い」と言ってしまった。そのことは今でも後悔している。
そして、その後に、僕は文章を書くようになった。僕は、パソコンをやるよりも、文章を書くことの方が好きだ、ということにどこかで気付いた。そして、なぜか、マスコミと全力で戦いながら、マスコミに見せつけるかのような文章を最初はWikiに書いていたが、そのうち、哲学的なことや人生的なことを考えて書くようになった。社会モデルを考えて、宇宙の仮想世界や、森羅万象のようなことを、適当かついいかげんに書いた当時の文章は、今見ると賢かった。だが、最大限の抑圧を詰め込んで、最大の恐怖と常に対峙して戦っていた。戦いの抑圧の文章は、まるで剣道部の地獄の階段(持久走で、僕は何百段もある階段を一気にかけあがる、子供としては最高の地獄を乗り越えるトレーニングをやっていた)だった。
そして、僕は人格と心を神に預けるようになった。神との対話という本を読んで、僕は神と言葉で対話した。そして、それがロシアや右翼のようなことを言うようになった。いつまでも続く神との対話で、僕は一度自殺未遂の経験をし、その後病院に入院していた時に、自らの詩集を出版することができた。それ以後の自分は、文章を書くことがいつまでも続いた。天才のように言葉を思いつき、何でも賢いことを書けるようになった。これは天から奇跡のように思いついた才能ではなく、「一度全てを完璧に書いたから」、書ける才能だった。
最後に、僕は学校に行かない代わり、英会話やピアノの教室に行くことにした。僕は子供の頃から、英会話やピアノや書道の習い事をしていた。そして、最後に、僕はデザインの勉強をしようと、障害者施設でもある就労支援施設に通うようになった。だが、僕はここで劣等感とLGBTに悩んでいる。自分にはデザイナーの才能がないのではないかと思う。また、文章を書くことはどうしてもやめることができない。トランスジェンダーの自分は、異性より同性に愛情が向かってしまう。
そんな抑圧と病気だらけの自分だが、一切が悲惨だったわけではない。思弁哲学者の経験哲学者として、関係とモデルからこの宇宙を解明する、最高の科学者だったし、パソコンやLinuxのことについては誰よりも詳しく、また詩集を出版するほどに文学の才能があるし、デザインやピアノや英会話も、長い間頑張っていたせいで普通ぐらいできる。また、文章を書く関係から、色んなことに詳しい。特に哲学者や歴史のことについて、普通の人間よりも詳しくなった。また、「世界を変えるような社会主義」を考えることもできるし、心の病気は自分だけの力で全て治した。
決して、学校は嫌いではなかった。それは小学校が好きだったからである。たくさんの親友に囲まれて生きた、幸せな小学生だった。
僕は、こうした抑圧ばかりの自分を反省して、この世界を抑圧のない、純粋で健全な世界にする。抑圧を排除して健全になれば、僕の病気も治る。精神障害とはこういう病気である。必ず治るはずだ。
昔は、世界や人間のことを「世界観」から分かっていた。たとえば、制度は人間の経験から作られるものであり、自由へと向かっていく。そして、全ては今、常に生み出されていて、常に生まれると同時に常に滅している。あるのはありのままの魂の力であり、仏という力で全てが生かされている。自らの手で経験することで、全ては自由な意識と経験となって、絶対的な王を生み出す。その王は指導者として世界を救う。生物学的に見ると、エンデと呼ばれる最初の星があり、地球は最後の星であり、生命は戦いの末に地球に降り立った。物理現象とは、無限次元の波状ベクトルであり、物質というものは存在ではなくふるまいにすぎず、物質の動きとは現象的な「作用の伝わり」に過ぎない。力というものは存在せず、全ては電子と光すなわち量子の作用にすぎない。そして、そもそもの生物は岩が高温で溶け出して、液体となって低温になって生まれたか、あるいは、海の中で風と重力と波によって、固形物として生まれた。そうした生物は、「生物の中の生物」というものを作ることで今の形となった。最初は、「進化だけをする単純ないもむし」しか存在しなかった。長い期間をかけて、虫は少しずつ進化した。今存在する虫は、その進化のプロセスを一生で簡単に遂げるようになっている。
そのように、昔の僕は、社会や森羅万象のことを「世界観」から分かっていた。そして、それは単なる「世界とはなんちゃら」というだけのものではなく、「プロセスと関係の意味を考える」ものだった。この世界において、そのプロセスが何をもたらすか、関係の中で何が意味的に成り立つか、ということから、社会制度や環境の発生を考えた。あとは、人格をロボットにして、ロボットを作り続けただけである。共有が好きだったのは、ネットのさまざまな友達との会話で分かったからである。その会話を、共有だと言っていただけに過ぎない。そこから世界を変えられるようになり、「経験的に社会をボトムアップできっかけから教えることで変えられる」という、そういう考え方で、独自な「完璧な自由の社会論」を作っていた。その上で、「全員の人生を包括する人生論」を書いていた。原理を数式のように、まるで「宇宙数学」のように、概念と関数を考えて、文字と言葉で計算する、そういう「カッツを超えた数学史の数学者」だった。自分の書いた文章が「数学史そのもの」だった。
アイデンティティや価値観から、「正しい道徳」を書いて、何をどうなすべきか、全て具体的に発想していた。世界観とプロセスによる、「完璧な経済学」だった。それは人生における啓発活動や実証・思考の考え方全てを書いた、「自由な新しい実験心理学」だった。人間の心の全てを包括し、「相手が必ず分かるように導く」かのような、「前提知識全てを排除した、完璧な公理主義の数学」を、その時分かることのみから分かることで、「新しい多重人格の女神」を作った。その女神は、この世界全てをロボット人間にし、2ちゃんねるの力で全てを滅ぼした。そういう、「滅びの風」の中で、「恐怖の大王」をやっていた。
本当は、「心のふるまいをどのように考えるか」ということを言いたかっただけである。また、「子供たちや教育現場がどのような意識を持たなければならないか」ということを、「精神的成長と自立」と「制度改革」の両面から考えながら、「正しい道徳・理想と啓発的な実体験の共有」ということを言いたかった。また、社会については、世界観を全部網羅していただけである。「自由」と「共有」という考え方の下で、「自由にすればどうなるか」ということをただ、叙述していただけである。
また、僕は本当は、決して二次元の漫画・アニメのようなひどく過激なことはしないし、人も殺さなければ、男とセックスもせず、またレイプのようなこともしない。僕は普通に女性を愛したい。こんな僕でも、愛情の気持ちはある。そのためには過去の抑圧を浄化して、清らかな体と心になる必要がある。必ず、僕は誰か、ひとりの女性を愛するだろう。そしてその女性とともに、新しい旅を始めるだろう。
ほかに何があったかというと、法則や構造のようなことを言っていた。自由が何を経て何に行きつくのか、自由な社会がどこから生まれるのか、といったことを、具体例と前提条件を生み出す「法則プロセス」にする。また、構造については、社会全体をモデルにし、さまざまな具体的要素を全体の構造から作り出して、新しい「良く考えられた発想と思いつき」をする。
それで、あとは、人生をただ書いて、心や良心のようなことを言って、良識のすべてを使って、「独自の科学を作り出す術」をやっていた。この宇宙における意識と真理全てが分かっていた。
最後に、最大限の恐怖に打ち勝った。僕に支配されたマスコミとともに、僕は世界を導いた。それは権力による支配ではなく、自由な機会を巧みに使った「いつ滅びるか分からない自由」だった。そう、自由な中で、僕は勝利した。最大限の勇気は、今、ここに続いている。それがいかにひずんでいてねじれた道であっても、全ての道はただひとつ、同じ「未来」という道へと続いていた。この先の未来は自由だが、決して白紙ではない。だが、人類の全員は、僕の導きとともに、楽園のユートピアへと必ず、生まれ変わるだろう。そこに現れた神は、いつでもあなたの人生に愛と微笑みを絶やさない。決して裏切ることのないその神が、僕の中の「僕の創造した神」である。この神こそ、ユダヤ人の王、ヤハウェである。そして僕は、イエス・キリストとともにこの日本を支配する、「もうひとりのメシア」である。
あとは、人生のパターンと考え方のようなことを言って、「人間の人格を創造」していた。たとえば、人間は位の高いものに付き従うか、ひとりの救世主となるか、戦う兵士となるか、信じるシスターとして善をなすか、と言ったりする。こうした考え方は、今までの自分の過去の経験と、世界観の構造に基づいている。いつも、僕はそういう、「自分の人生の中で培われた構造」のようなものを書いていた。自由から平等、あるいは経験や学習や環境や再利用のように、プログラミングとインターネットで培われた、また「自由」を考えることで生産的な構造を築いた「失われた過去の人生」を、そこに残していた。全てを失っても、まだそこに残っていたこの宝は、まるで「悪魔によって失われた心の中の博物館」のようだった。
本当のことを言えば、哲学というものは簡単で、たとえば、プロセスから意味を考えるだけでできる。そのプロセスが存在した時の原因と結果を考えて、どのような心の状態が成り立つか、現象やふるまいや関係が成り立つか、ということから、正しく実験し、その意味を思考し、自らの経験として体験し、また世界観を成り立たせながら「自由」を考えることで、全ての人間の「成長という意味」が分かり、そこから人格が成り立ち、プロセスが成り立ち、そこに「万人・宇宙における共通点」を見出す。そこから、真理となる「原理・原則」が、「過去の経験全てを貫くように」見えてくる。
要するに、世界観とプロセスを考えれば良い。心理学や経済学の全ては、そこにおける意識や認識、感情や心、あるいは自由な社会構造と決定の可能性を考えることで、仮定と成立の論理学から、自分独自にいくらでも作ることができる。そして、もっと考えれば、世界全体、心全体、人間全体を「融和」して考えられるのである。それが、「再考」という言葉の意味であり、「再構築」という考え方である。
あとは、純粋な感受性を、「受容」から考えることである。人々を受け入れ、自分の自由や権利を捨て、相手と「一緒に協力する」ことで、助け合いの意味が見えてくる。そこから、創造性や良心が見えてくるだけではなく、「自由のために戦う騎士」になることができる。その結果愛が生まれ、「経験を他人に教える」人間になる。おそらく、ヘーゲルはそういうことを言いたかったのだろう。
さようなら。もうそろそろ、地球は終わりである。温暖化は、ただ気温が高くなるだけでなく、農作物や家畜の乳が採れなくなっていく。コーヒーのようなぜいたくな食べ物は食べられなくなって、米も少量かつ高額になっていく。また、そのうち、クーラーでは冷やせないほどの高温多湿が襲ってくる。海面も上昇し、海洋プラスチックの影響で魚も死んでいく。天変地異が地上を襲い、津波によって5メートルの波が何度も襲ってくる。この世界はここで、完全に終わりである。ノストラダムスは、1999年7の月に恐怖の大王が訪れて地球は滅びると言ったが、その恐怖の大王はどこかに居て、最後にこの地球を滅ぼす。今のところ誰も気づいていないが、きちんとその時に現れている。人類はここで終わりだ。滅亡して、火星のような惑星になるだろう。
あとは、「経験を全部分かる」とか、「思考と証明で全部分かる」という発想が多かった。習得し、実体験を考え、思考し、気付き、成長し、精神性を向上し、反省し、考え方を見出し、積み重ね、解明し、信じ、疑い、実験し、推論する。そのような、「思考で全部分かる」という発想を書いていた。全てを体験し、全体像を見よ、などと言った「成長の原則」のようなものを書く。それだけのちっぽけな、16歳の少年だった。
こんなにかっこよく書いたものの、実際は2ちゃんねるをやりながら文章を書いて狂っているだけの馬鹿である。全てを想像力で予測することで、あたかも分かったかのような気になって、世界中で自分だけが賢い体験や経験を持っていると思っていた。実際はただの馬鹿な左翼で、良くいるオタクだったというだけにすぎない。今考えると、大学生の方が賢かった。大学生は、ここまで勉強して知っている人間が多い。大学生はきちんと賢い。そういうものである。
最近、この世界は「自由」の世界になっている。そして、この自由とは、単に「弱肉強食」である。
この自由な世界を、もっと違う世界に変えなければならない。
どのように変えていくか。僕は、法律と共同体の上部・下部構造に分けて、法律でどのようにするか、共同体で何をするかを規定する、ということを考えた。
だが、これはただ単純なモデルにしただけで、賢くない。
僕が思うに、民主主義と帝国主義のモデルを統合した方が良い。なぜなら、社会主義共産主義は失敗したからである。
そして、民主主義的な帝国主義をやるのであれば、むしろ、それは「普通のただの国」になる。
そう、普通の王国になってしまえば終わりである。だが、それではつまらない。
普通の王国としてのアイデンティティがどこかにあるとするなら、それは民族の文化・風習であると思う。そして、今の現代社会の自由には、そういうものがない。
だから、「新しいアイデンティティ」のようなものが生まれればいいのだが、それが生まれる気配は一向に現れない。
結局、ただの馬鹿な世界になってしまった。それが今の「自由の馬鹿な世界」である。
結局、これも、ただ適当な枠組みを考えているだけに過ぎない。具体的な「何か」が見えてこないのである。
もし、具体的な日本の文化があって、それが江戸時代と明治維新であるとするなら、そんなに古い文化には何も価値が存在しない。
そもそも、アメリカなどの新しい国には、民族文化そのものが存在しない。
価値が何もないなら作れば良い。そうは言うが、今の世界では、もう、この地球そのものが終わりかけている。その中で何か楽しいものや美しいものは、自然に生まれなくなったのである。
Facebookの文化がもしあったとしても、今の時代の流れるスピードでは、昨日のことは明日になれば忘れ去られる。
この世界に価値が無くなったこと自体は、悪いことではない。
選挙や政党というものには、すでに価値は存在しない。彼ら政治家の価値観は、民衆の価値観と離反しており、政治家の考えることは民衆の考えることと全く逆だからである。
民衆が自由を望んでいるのは、馬鹿だからである。上が自由に従えるだけなのが分かっていない。
だからといって、民衆を無視すれば良いというのは、愚の骨頂である。
社会主義の共同体思想は、今の時代価値を持たない。これもまた、民衆の価値観と離反している。だが、そもそも、民衆は馬鹿だから、民衆の価値観が必ずしも正しいわけではないのである。
価値観を考える上で、「誰にも好まれる美しいもの」や、「誰もが待ち望んだ答え」のようなものがもしあるとするなら、それは単に芸術家や大学の研究者によるものではなく、ただ、生まれるものである、ということが僕は良く分かっている。
ただ、このように生まれるのが、宗教である。そして、今の時代、宗教が流行る目論見は全く無いと言って良いだろう。
自由や平等のイデオロギー論争は、実際のところ「強者の力の維持」と「弱者による社会の破壊」の戦いであり、多くの場合どちらも意味が無い。イデオロギーを考えるということは、強者と弱者が戦うということだけを意味しており、意味が無い。
戦いのない平和をいくら唱えても、敵は現れる。
だからといって平和に意味が無いわけではないが、「平和を唱えるものが勝つだけの勝利の方程式」になりつつある。平和だから勝っている、というだけである。
平和を否定するのも、つまらない。
ただ中国やイスラム圏を倒すだけでは、良い世界にはならない。アメリカがもっとも馬鹿だからである。
共産主義の理想しか分からない人間には、生産手段の共有が良く見えるが、実際のところは、「生産手段の共有という理想で騙しているだけ」である。工場のような生産能力の向上と、社会の変化を、革命的な発想で結びつけただけにすぎない。
そう、昔から、生産手段の共有と唱える人間は、騙されているだけなのである。
結局のところ、価値とは「あなたが好きなものは何ですか」という発想になる。そして、たとえばテレビゲームが好きであれば、コンピュータが好きになって、自由が好きになる。それは単に、自由に騙されているだけである。
価値など意味が無い。そういうものである。
では、本当の意味とは何であるか。本当の意味は、価値とは全く無関係のところにある。それは人の「生き方」かもしれない。だが、生き方がたとえ優れていたとしても、その生き方を全員に適用し、クローンを作れば良いというわけではないだろう。
生き方の自由がもしあったとして、全員が優れた生き方をできるだろうか?答えは否である。誰も、優れた生き方なんかできるわけがない。キリスト教徒でさえも、聖書など信じない。
だからといって、支配すれば幸せである、とは言えない。誰も支配なんかされたくない。支配されれば、ロボットになるだけである。
そもそも、この世界にはさまざまなものがあり、文芸、学問、芸術、哲学、宗教、さまざまなものがあるが、そうした世界がもしあなたの前に何か現れたとして、それを本気で学ぼうとして、そして、どうなるか。結局、学んだものに意味などない。
そうしたアイデンティティや価値に見えるものの多くは、価値をなさない。
だから、まさに「騙されているだけ」になる人間が多い。そう、多くの騙されている人間は、実際には騙されておらず、幸福なのである。
だからといって、騙されればいい、というものではない。
真実がもしあったとして、それがネットを通じたコミュニケーションにあると信じていても、それは全く騙されているだけであり、そうした人間が革命家やテロリストになる。
可能性や生き方に真実があったとしても、その真実を共有することはできない。
自分なりの宝を作ったとしても、それは価値がなく、騙されている。
無意味な文章を少し、書きすぎた。話を戻そう。自由な世界を、別の何かの世界に変える必要がある。
人間性を信じてほしい。みんなのそれぞれの価値を、自尊心のあるもとで、大切にしてほしい。もっとあなたは大切にされるべきである。
ただ、僕の唱える人間性や自尊心には、「大切にされる信仰」のようなところがある。そんなに大切にされたいのは何かが間違っている。
昔の自分は、社会の上部構造と下部構造を作りながら、心理的な感情や環境、信念などの理論を作っていた。
全ての構造を作って、その構造から構造を分かることで、分かっていた。
自由な法とは何であるかとか、自由な感情とは、決まりとは、理想とは、のようなことを、ただ書いて、機械のような壊れ方をしていた。
日本を治すためには、そのように、世界を導いていかなければならない。永遠を一瞬で与えなければならない。
よく思い出すと、いつもの文章は、そういう風にありえない世界をいくらでも作っていた。最近、そういうありえない世界が夢に見える。夢の中で、いつでもそういうありえない世界をやっている。
そう、この世界を夢の世界にしても、良いことは何もない。恐怖に怯えながら暮らすだけである。
だから、ありえない発想はやめよう。アメリカやソ連のようなありえない発想はもう要らない。日本には、そういう発想は必要ないのである。
「世界価値」というものがもしあるとすれば、それは何だろうか。
僕は、それはインドや中国のように、「とても古くから語り継がれるもの」でなければいけないような気がする。
ヨーロッパやアメリカのような価値は、そんなに古くなく、ローマ帝国ぐらいにさかのぼる。だが、インドや中国は、それよりも古く、何千年もの間に培われたものである。
もし、日本を新しい価値観に染めることがもしあったとしたら、そうした世界価値のようなものにさかのぼるのではないかと思うのである。
昔の日本を思い出すと、ただ、好き嫌いと自分勝手な自由しかなかった。そんな世界だったが、何も知らなかったから、僕らは賢かった。
最近は、おかしい。最近の日本は狂っているのではないかと思う。
僕らはきっと、どこかで道を間違えた。大切な愛を得たように見えて、本当は大切な愛をどこかで、心ごと奪われてしまった。
それは、僕のせいではなく、またテレビやマスコミのせいでもない。日本はそもそもがおかしかった。みんなで道を間違えたのである。みんな、おかしな方向に進みたかった。おかしな方向に、未来を勘違いしていたのである。
僕らの進んだこの道は、間違いだった。完全に間違った世界になった。悪いのは、昔あった全てのものである。昔あった全てのものが、今のこの世界を望んだのである。
自由に労働し、自由に利益が得られる。自由に働き口を決めて、自由に報いが得られる。昔の僕は、そうした自由な労働と生産が好きで、それをベースに社会論を書いていた。
だが、これは無意味である。なぜなら、自由にすればするほど、安定しなくなるからである。安定した収入が入らなくなって、いつ収入が得られなくなるか、分からなくなる。
だから、自由にしない方が良い。