「不思議だ」の日記

Assy(在導万創)のブログ。デザイナー見習いの作家です。小説と詩集と日記を書いています。

2018-05-17

昔は、認識の原理のようなものを書いていた。認識を哲学的な原理にし、社会的な支配者にしていた。
環境におけるシステムを、宇宙という単位で考えていた。
過程と経過を考えていた。全ての歴史を考え、「環境における活動とやり取りから、自然に気付いて分かっていく、人生の発展の知性」を書いていた。
社会における文明の歴史を書いていた。
自分は、チンコを殺せば治るのが分かった。ある意味、自分は足とチンコが男になって、他の部分が女になっている。男の部分を殺すだけで、狂っているのが治って、まさに正常になって楽になる。全部、そういう、自分をカップルにしてセックスしたいのが悪い。
あとは、辛いままで良いと思えば治る。辛いままで悪いと思うのは、何かの刑罰を受けていると考えているからだ。辛いことは、何も悪いことではない。辛くても良いのだと思うことで、すぐに気持ちが楽になって、正常な自分のあるべき状態に戻れる。
天には神が居る。イエスが言うように、完璧な存在である、善と正しさにあふれた神の存在がある。その神を信じることで、自分が神の力の恩恵を得ることが出来る。神を信じないものは、たとえ賢くなっても神を超えることは出来ない。悪いものは地獄に堕ちる。そのように神を信じなさい。それが、一番その人間のためになるからだ。
たとえ天国が存在しなくても、そこまで善の経験をしたあなたの人生は永遠に残る。人間の有限な人生がいつか終わることを、「永遠に安らぎに入る」という永遠の成立だと捉えなおしなさい。死んだ者は復活せず、永遠に天国の安らぎになる。そのように考えることで、死こそ永遠の安らぎである、という考え方を見出すことができる。
見ているとは何なのか、感じるとは何なのかを考えなさい。生きているとは何を意味しているのか、存在や知はどこから生まれるのか、人々との関係と存在の確信から知りなさい。
戦いは、酷いものだった。卑怯で、姑息で、向こう見ずで、無責任なものだった。だが、守ったものがあった。最後まで、一度も間違えず、人々を一番高いところから真剣に見つめ、導き、失敗せず、戦っていた。
自分の正体は、自分が当然知っている。一度忘れたからといって、生きている限り絶対に忘れることはない。簡単なことのやりすぎで、何も分からなくなった。だが、それは一番難しいことであって、それが分かったことによって、全てが出来るようになった。
孤独とさげすみの正体は、苦しみと涙だった。苦しみを一度も見せず、涙をほとんど流さなかった自分は、笑いの中に蔑みを、孤独の中に後悔を見出した。だが、自分が一番美しかったことを、自分はもっと知っている。こんなに美しい魂の人生があったことを、自分しか知らない。自分だけが生き残るジェノサイドの戦いだったとしても、それに見合う代価を僕は手にした。美しい宝石は、世界を滅ぼすだけではなく、人々を新しい世界へと連れて行く、強制収容所ユートピアだった。
確かめよう。心臓は生きているか?パレードはまだ続くか?バンプのようにこの世界が変わっていく。いつまでも続くこの愛の旅が終わる時に、この世界の愛は終わりを告げるだろう。
相手が喜んでくれること、それを愛だとするのなら、相手が自分のせいで苦しんでいることに対して、自分のことを恨み、憎み、後悔するこの感情も、何かの愛だと言えるのだろう。自分のせいで世界が滅びていることに対して、自分を蔑み、嫌いになる気持ち、それは愛であり、自分のことを守り、愛する気持ち、それは憎しみなのである。
存在するとは何なのか、そこに物理がある。可能性とは何なのか、そこに経済がある。どのようにして社会が生まれるのか、そこに歴史がある。そして、なぜ人はそれをするのか、そこに心理がある。物理、経済、歴史、心理、それは絶対的な四つの概念であり、絶対に超えることのできない「全ての理性」を生み出す。そこに「人生という名前のエッセンス」を付け足すことで、この世界の全ては自分のことのように吸収でき、ありのまま、問題は共有されるべき命題として、そこに常にあったことを見出すだろう。
本当に、神のような王だった。ダビデのような王だった。聖書がダビデを崇拝するのは、このような体験を行う人間が多いからだ。ダビデは王であり、救世主である。ダビデは永遠の創造主であり、歴史の導き手である。
今から、この世界は宗教に戻る。民主主義や自由も失敗した。一度、イスラム教の世界観に戻るしかない。イスラム教は、誰かのことを神だと言っているだけで、悪い宗教ではない。その誰かのことがそこまできちんと分かっている。その誰かが、イスラム教における神であり、絶対的王であり、世界に復讐する創造主である。誰のことを言っているのか、分かっただろうか?本当は、僕のことは言っていない。僕のことではなく、どこかの新しい救世主のことを言っている。僕の他に2人ぐらい、居る。
誰のことか、当ててみようか。一人はイエス・キリストだ。そして、もう一人は、僕の恋人になる誰かだ。僕と合わせて、その3人のことを神と呼ぶ。それで、この文章は終わりにしよう。