「不思議だ」の日記

Assy(在導万創)のブログ。デザイナー見習いの作家です。小説と詩集と日記を書いています。

2017-10-10

作業所と農園に行ってきた。作業所では馬の仕事をし、農園ではマルチシートをかぶせた。
以下は、ケータイのメモである。
自分は、みんなに自由になってほしいのを書いていた。
既存の学問のあり方に囚われず、自由に自分で考え、自由に知って、自由に感じてほしい。
そして、知性を作って分かっていた。
自分は、学校に行かなかった。自由はあったが、自分の人生を一度失ったことで、馬鹿になった。馬鹿になるのが普通になった。
ひたすら頑張り続けるのが辛いだけだ。
血は、動脈で送るだけでなく、静脈で送り出せば治る。
子供は、プログラマの仕事の実情のようなことを教えてあげると良い。他の仕事はそこから分かる。
プログラミングは、権限や再利用のあり方から分かる。
子供にはたくさんの職業体験をさせるべきだ。だが、学校が本来の目的を見失うのは良くない。学校で勉強したことが何だったのか、どういう意味があったのかを知ると、子供は賢くなる。昔の自分がそうだった。
パソコンは必ずしも悪いわけではない。特に、Linuxは技術的にも歴史的にも、子供にとってとても良いツールであり、環境だと思う。子供には、Linuxスペイン語をさせるのが良い。それが一番色んなことが出来るようになる。
プログラミング初心者にはVBをさせるのが良い。GTK+は全く同じように作る。
自分は、自由も悪いのが分かっていない。きちんと働くのが賢い。
環境と社会を作るためには、人々のことをもっと良く知る必要がある。経験を積むことで出来るようになる。
世界は常に変わっているが、常識としての共通概念がそこにある。
制度や決まりは目的と方法を知ることから生まれる。
会社は機械だ。決められた通り、機械のように動いて働いているだけだ。
本当にそれが何なのかが分からなくても、それがどう振る舞うのかを考えることは出来る。
環境から逃げだせくても、心を別の場所に置くことは出来る。
復讐心は、結局は自分の身を滅ぼす。敵を許し、取り込むことで、双方に良い結果をもたらす。昨日の敵は今日の友だ。
人間は、何も考えなくなると分かる。考えている間、執着しているからだ。これが、無我の境地だ。
ケータイのメモ終わり。
僕は、白人は子供のようなところがあると思う。子供のように争い、子供のように議論する。日本人は、そういうことをしない。大人が日本だ。
昔は、みんなを自由にするだけではなく、その自由の中でどのようにしていくか、すべきか、なっていくか、のようなことを書いていた。
数学的なことを考えながら、世界観を構造的に書いていた。
全ては、所有、行動、目的、方法、理由、心、協力、可能性だ。
また、物理的な真実に気付いて分かっていた。
宇宙はここにある光が照らす暗闇であり、ものと空間の間に違いは無く、地球は宇宙であると同時に大気の中の土と水である。
最も多い生命は、草木と魚である。
生命は、太陽の子供であり、常に太陽の光を吸収して、常に作り替わっている。
自分は、もっと数学的、物理的に考えた方が良い。数学以前の先天的な知性など存在しない。人間に数学が出来ない人間は居ない。数学とは、人間の知性の部分だ。
もう少し、構造的かつ具体的に考えれば、それがいつもの文章だ。
足はもう、辛くなくなった。虫のように動き回る部分が死んだ。もう楽だ。
あとは、数学的に考えるために、良く思い出しながら、定義・命題と学習・未来のように考えれば良い。
もっと、「考え方を考える」と言うことをすれば良い。思い出しながら、一つ一つ確かめていけば分かる。
人間は多い。見ていると、みんな当たり前すぎて気付いていないかもしれないが、人間の数は本当に多い。そして、そのどれもが違う経験をしていると同時に、自分と同じ理性を持っている。それは、驚くべきことだ。
「機会」と言う可能性の力をいかに活かすべきか、ということが、当たり前の「人間は多い」と言う真理から見出すことが出来る。
昔から、自分は神のように永い年月を生きている。もう、心の中では何億年も経ったはずだ。
普通、単純に考えると、「大きな国になれば(税収や経済規模が大きくなって)国は栄える」と考えるだろう。
確かに、大きな国になれば、大きな国になったことによって、経済は豊かになる。
だが、僕は逆に、経済が豊かになってしまえば、それによって独立しても国は立ち行くようになって、国は小さくなる、と考える。
大きくなれば豊かになる、それは裏を返せば、豊かになれば国は小さくなる、と言うことなのだ。少し考えれば、これは理解出来る。
だから、僕は、共産主義共同体主義のような共同体の国は、生産技術と規模の向上から、特に著しく豊かになる油田のようなものがある場所において、盛んになると思う。
豊かになってしまえば、それ以上豊かを目指さなくても、より少ない資本でも国は成り立つ。
要は、金持ちと貧乏人だと思えば良い。金があるなら、パートタイムの仕事でも十分に生きられる。もちろん、仕事で稼いだ方が豊かになる。だが、老人は金があるせいで、何もしなくても生きられる。
だから、僕は生産規模の拡大や生産力の向上とともに、共同体の社会がやってくる、と言うマルクスの主張は、ある意味正しいと思う。
昔は、もっと自由な共同体のことを良く書いていた。共同体は自由であり、それぞれが手段を持って自立し、それぞれが決め、それぞれが文化を作り、それぞれが法律と憲法を定める。僕は、生産規模の向上とともに、そうした共同体の世界が来る可能性は少なくないと思う。
昔から、僕はそういう共同体の国を良く考える。だが、良く考えると、何も共同体にしなくても、連邦でもそういうことは出来る。最強の国を目指すなら、むしろ、大きくて豊かな方が良い。僕は、共産主義と同時に、資本帝国主義のような、限りなく豊かさを求める思想が生まれて、その2つが戦うようになるだろう、と思う。
あとは、僕は奴隷階級が資本家階級に革命を起こす、と言うのも間違っていると思う。資本家階級と奴隷階級は、双方の話し合いの下で、平和的に合意によって平等になることが出来るはずだ。何も、暴力的な革命を起こす必要はないし、その必然性もない。豊かになりすぎた社会は、「無意味」へと至り、それを打開するための方法として、独立や共同体を生み出すが、そこに暴力的な革命は必要なく、平和的な国民投票によって共同体の独立は成し遂げられる。きっとそうなるはずだ。そして、独立後の民衆は、独立前と何も変わらない暮らしをしながら、手段のような制度的改革を行い、国の大きさと自立性だけが細分化され、自由になっていく、それぞれが出来ることが増え、多様性が生まれ、社会全体が自由へと向かっていく、僕はそういう「マルクスとは違う共同体主義の思想」を考えたいと思う。