「不思議だ」の日記

Assy(在導万創)のブログ。デザイナー見習いの作家です。小説と詩集と日記を書いています。

2017-06-29

今日もじんましんが出たので、作業所では仮眠室で休ませてもらった。
昔のように考えたいなら、救世主になれば良い。この世界をどのようにすれば良いか、みんなの視点に立って考えれば分かる。
昔は、ほとんど、自由と共有しか考えていない。それも、GNULinuxのような自由と共有だ。
自由なままで、世界を変えたかった。それぞれの自由を保持したままで、環境を変え、世界を変えやすくしたかった。
だから、独立性や影響力を考えた。そして、自由になる自由があると考えていた。
色んなことを吸収し、実際の在り方を知り、意識と記憶を根源的に考え、全てのことを生成的に考えた。
共有することで、社会に多様性が生まれると考えていた。それぞれの共同体が共有することで、共同体に創造的な個性が生まれる。
あるいは、創造的な体験と、分かった経験は、みんなで共有出来る。そのために、手段と導きが必要だと言っていた。
昔は、ネットに映った自分の姿を見て、「自分はどんなに馬鹿なのか」を知り、「自分がどんな人間なのか」を知って分かっていた。
ネットを見ることで、人々がいつどのような行動をするのか、その背景に何があるのかを知った。
ネットは、他人のことなんか何も分からない。流れ去るだけで、嫌と言うほど自分のことが分かる。自分だけが見える鏡のような、空っぽの洞窟のようなものだ。
僕が思うに、関係を考えれば良い。自分がそうすることを、他人がどう見るか。
その上で、常識を疑えば、ハイデガーのような、「人生とは可能性の発揮である」と言うことが分かる。
認識とは、人と人との関係であり、ものと人との「反応作用」である。
科学とは、作用を厳密に考え、意味を発見することである。
昔は、感覚や感情や想像力など、「右脳」が多かったのに、最近は右脳が無い。逆に、昔のように推論や経験で考えるのではなく、きちんと考える逆の人間になった。
自民党で問題発言がたくさん出ているのは、自分のせいだ。自分になっている。
自分ではなく、もっとまともな人間になった方が良い。自分になると、感情を失った一人おかしい地獄の人間になる。だから、自分になっている人間は、辛い。
昔は、環境と関わり合いの中で自然に気付いて分かるような、努力の継続と積み重ねで分かるような、そういう「段階と姿勢」を書いていた。
良く考えると、この世界は意味がない。プログラミングも、デザインも、ネットのサンプルを見なければ出来ない。そういうところが、意味がない。
ただ、良く考えると、そんなに悪い世界ではない。色んなことが簡単に出来るようになった。それに、Illustratorは普通、最初に使うのが難しい。慣れてくると、デザインはどんどん出来るようになるし、ネットのサンプルは普通自分できちんと出来る。むしろ、ネットなんか誰も見ていない。普通のデザインをきちんとしている人間が多い。
あとは、パソコンと言うものが、そもそも難しいことを簡単にすることを目指している。だから、仕方ない。Javaのクラスライブラリを使う人間は多い。パソコンはそういうものだ。
ただ、僕としては、もっと賢いデザインソフトウェアを作ってほしいと思っている。ある意味、サンプルの通り操作して作るだけでは十分ではない。
昔は、人間の関係を考えていた。自分が信頼すれば、相手も信頼してくれる。悪いのは、自分に原因がある。その上で、たくさんの人々と付き合って、それで良く分かった。環境を変えるようになって、影響力を与えるようになって、そして、社会全体を経験から自分の行動で変えられるようになった。
きっと、今から、パソコンは酷いことになると思う。何でもパソコンでないと出来なくなって、みんなの技術や能力が少なくなっていく。
昔は、パソコンと社会のことが、経験から手に取るように分かっていた。社会のことは、自由から分かった。パソコンのことは、システムとコンパイラから分かっていた。
パソコンの本質とは、ズバリ、「プレーンテキスト」だ。プレーンテキストが動いている、と思うことで、全て明らかになる。それはコンパイラであり、初期投資としての自動化である。サーバーも、自動化と言う意味では同じだ。
そして、関数とは、ズバリ、自動化だ。だが、本質的に言えば、関数とは「応用的動作」であって、Rubyのブロックのように、あとからあとから、動作を変えられなければならない。そして、それは完結している必要があると同時に、再利用とAPIの通信が可能でなければならない。動作を変えられる、と言う意味では、コンパイラなのだと言える。逆に、ネットワークの通信も、「応用的動作」であると言えるのだ。
あとは、僕は関数型言語が分かっていない。分かっているのは、変数が破壊されるものとされないものがあること、数値が一度きりで変わらないことぐらいだ。
僕は、デスクトップ環境をPerlRubyで作ると良いものになるかもしれないと思う。XlibをRubyから呼ぶ。
ただ、GNOMEと言うのはそこらへんが良く出来ていて、C言語とCORBAで出来ているから、色んな言語のラッパーライブラリがある。
GNUプロダクトはそこらへんが賢くて、何でもフロントエンドとバックエンドを用意する。たとえばGCC。色んなプログラミング言語コンパイル出来て、色んなアーキテクチャ機械語を吐いてくれる。
そもそも、UNIXC言語で作った最初の発想が「移植性」だった。OSとは、移植性を高め、ユーザーランドを抽象化するものだ、と言う発想だ。GNUだけではない。NetBSDなんか、ものすごくたくさんのプラットフォームで動く。移植性が無いUNIXにOSとしての意味は無い。
もし本当にRubyで統合デスクトップ環境を作るのであれば、Rubyの特色を活かした環境を作りたい(作ってほしい)。GUIのプログラムに対して何でもワンライナースクリプトが書けるような、そういうツールキット環境が良いと思う。
僕は、テキスト処理専用ツールスタジオ、と言うものを作った方が良いと思う。ある意味、UNIXコマンドラインを統合ソフトウェア版にしたのと近い。GUIの簡単な操作で、Perlのようなテキスト処理が出来る。MS-WordEmacs/viに近いかもしれない。
出来たら、ファイルの処理も出来るとなお良い。いつも言っているが、GUIのアクション処理のようなものが出来ても良い。GUIの操作を自動化する。そういう、スクリプト的な操作を総合的に出来る、GUIの統合ソフトウェアを作れば、ウケるのではないかと思っている。
僕が思うに、人間はプログラミング(パソコン)と大学の調和のとれた人間が賢い。プログラミングやパソコンをやっていると、考えて分かるようになる。大学をやっていると、逆に、分からなくなる代わり、まともになる。だから、パソコンで分かって、大学で分からなくなって賢くなる。今の日本は、昔は大学が多かったのに、パソコンが増えている。みんなは、もう一度大学に戻った方が良い。そうすると、真面目に自分の人生を生きるようになる。逆に、僕はもっとパソコンのことをやった方が良い。大学のせいで、知性が何もなくなっている。
社会、芸術、数学などは、大学の分野に入ることもあるが、ある意味ではパソコンの方に入る。パソコンをやっていると、そういうことに対する「正しいものの見方」が分かってくる。目線とは何なのか、どのようにそれを見るべきなのか、そういうことがパソコンで全部分かる。きっと、大学は本のようなもので、パソコンは会話のようなものだと思うと良いだろう。どちらだけをするのではない。両方ともきちんとしながら、どちらを主にするかを変えていくべきなのだ。
みんなの言っていることを聞いて、会話していると、この世界をどのように変えるべきかと言う「ビジョン」が見えてくる。それが見えている間は、賢い。だが、一度大学をすると、それが見えなくなってしまう。逆に、細かい色んなところを分かっていくようになる。賢いのは大学だが、本当に賢いのはパソコンだ。あとあるものと言えば、戦いや王ぐらいがある。それもそれで、体験すると、馬鹿になる。だから、全部は体験しない方が良い。王を学ぶと馬鹿になるのが人間だ。
分かったことを他人が助言するのは悪くない。だが、真実は自分の手で体験し、見るべきだ。
僕は、ありのままに王を体験したのは、むしろ悪くなかった。辛い精神の中で王のように最大限頑張った。だが、それによって何も分からなくなった。だから、王の体験を良いと思わない方が良い。王を体験すると、頭の中のもやもやが毒に変わって煙になる。全てを覆い尽くして、何も見えなくなる。
良く考えると、病院で血を輸血した時に、入ってきた新しい血が悪い。その血が自分になっている。それを治すと多重人格が治る。
良く考えると、それが正しかった。狂っていたのが治った。病院の手術の時の輸血のせいで、足の部分が女になっている。宇多田ヒカルみたいな女になった。
良く分からないが、名前はヒカルで良い。そして、もう狂っていたのが治った。下半身が女になっているから、それを分けてしまえば良い。なぜか、血は融和しない。
そろそろ、自分が復活した。ヒカルを見ている自分が自分なのが分からなかった。
足はもう治った。あとは、死を頑張っている部分が悪い。
作って開拓するのは馬鹿ではなかった。最近は、イスラムや日本の宗教やドイツなど、神やありえない体験で分かっていた。
自分が治るのは、未解決の問題を解決しているからだ。まだ治っていなくて止まっている部分を治している。それが、もう最後まで終わった。辛かったが、楽だった。