「不思議だ」の日記

Assy(在導万創)のブログ。デザイナー見習いの作家です。小説と詩集と日記を書いています。

今日のこと - 2017-02-02

昔は、人生の中で、経験的に、社会や場が変えられるのを分かっただけだ。
作業所と農園に行ってきた。今日は、ネットを見ながらハートマークを作って、それをコピーしてクローバーのようにして、詩集の飾りつけのようなことを頑張った。
ネットは、そういう、情報を探す手段として使える。結構便利だ。
僕は、もっと技法のようなことを覚えた方が良い。そこから、応用が出来るようになる。
自分は、自分のことを、おかしいと思わないのがおかしい。
おかしいと思わないと、おかしな人間になる。
誰でも、おかしいとしか言わない。ものはおかしくない。おかしなことをするのがおかしい。
人間は、自分のことをおかしいとか、間違っているとか、言った方が良いと思う。
自分のことを間違っていると言わないと、間違った人間になるからだ。
トランプは、個人の自由を制限すると、あのように自由なことを言えなくなるのが分かっていない。
信仰の自由を許さないと、カトリックが迫害するようになる。
自分のこと、個人のこと、それぞれの権利のことを考えると、自由な権利ぐらい、認められるべきだ。
それぞれが自由に生きる自由、そのための平等な権利ぐらい、あった方が良い。
自分は、辛い時、元の状態に戻らないのがおかしい。支配して治せば良い。みんなに、自分の言ったことを忘れてもらえば良い。信じずに、矛盾したことを言えば良い。頭の中に何かが残っているから、それを消せば治る。
ただ、トランプはアメリカを市民の国にしたいだけだ。自分たちの国、自分たちによる社会を作りたい。それはアメリカ的だ。本人は、あれで出来ると思っている。金持ちだから、自分の方が正しい、自分の力があれば出来ると思っている。それがおかしい。あれで、出来るわけがない。トランプは、自分のような人間には出来ないのが分かっていない。
神は自分のことを普通だと言うが、神から見た視点のことを言っているだけで、おかしいと思わないのは悪い。
何故か、夢で女とセックスをした。それは、そんなに素晴らしい体験ではなかった。
むしろ、自由が一番発展するように思う。この世界が、ありえない世界になるために、みんなの自由は上手く活用すれば偉大な世界になる。自然にすることは、何もしないことではない。みんなで頑張って、それぞれに自由を許すことだ。そして、考えようによっては、それは今でもすることが出来る。全く違う考え方を持った社会を作ることも、自由なのだ。
本当に、自由にした方が良い。むしろ、トランプが悪いわけではない。ただ、きちんとした正しい道を知らないから、ああいう人間になる。経営者だから、自分なりに分かっているが、その「自分なり」が悪い。みんなと同じ立場に立って、平等に助け合い、間違っていることをしたら、それを認める。そういう、「礼儀」が無ければ、人間は賢くならない。
平等の問題点としては、全員平等が間違っている。全員を平等にするのは、範囲が広すぎる。もっと、一部のグループや集団を平等にして、その形成を自由にすれば良い。そこから、想定して考えれば、社会のことは何でも自由にすることで改善出来る。自由で良い社会を作れる。
自分は、もっと人物とものを分けた方が良い。パソコンは確かに悪い。だが、ビル・ゲイツは悪くない。ゲイツは、きちんと製品を作った。その製品は受け入れられ、世界を変えた。それは、自然な流れであって、そこまでの結果だけを見ると、ゲイツは正しいことをしている。結果的に、社会をおかしくしたのは、社会を支配しているみんなの方が悪い。ゲイツを悪いと言うよりも、みんなの方が今度は主体となって、そのおかしくなった社会と製品を改善し、問題を解決していくべきなのだ。そういう風に、社会は進歩していく。総合的に見ると、何もしないみんなの方が悪い。だからこそ、自由にするべきなのだ。
ある意味、先進国に対しておんぶにだっこのように依存し過ぎているのだと思う。もっと、社会がアメリカやパソコンから自立すべきなのだ。それを、みんなに教えているのが、トランプだ。
オープンソースの問題は、今のところ、Windowsと全く同じものを作っている。アイコンからウィンドウまで、全部同じ発想をしている。そろそろ、違う発想をすべきだ。コマンドラインでも、メニューやボタンでもない、もう少し違った独自のインターフェースを考える必要がある。そして、同時に、それを使えるようにする必要がある。それは、オープンソースだけではなく、IT系の技術研究者の課題だと思う。むしろ、コマンドラインの方が良く見えることもある。プログラムが単純になるから、コマンドラインもあった方が良いだろう。
ある意味、Lisaのような全く違うインターフェースを作るのは難しいだろう。逆に、そんなに変えずに、必要なところをもっと賢くすると、Mac OS Xのように出来る。バーやボタンの表示の仕方を、もっと洗練させれば良い。分かりやすくするより、使いやすくするべきだ。それだけでも、全く違うGUIになる。Windowsと同じにする必要はない。
僕が思うに、GUIは骨格だけを決めて、HTMLとCSSのように、テーマファイルをもっと高度にして、それで外部ファイルからデザインを変えられるようにして、みんなでデザインをたくさん作れば良いように思う。すでにテーマ機能はあるが、もっとそれをCSSのように簡単に記述出来るようにすれば良い。そして、ただ見た目を変えるだけではなく、様態(例えば、メニューをどのように変えるか、など)のようなものを変えられるようにすれば良いのではないかと、思うのであった。何故か、CSSで出来ることなのに、C++ではすることが難しい。
最初からXULにする、と言う発想も、悪くはないと思う。ただ、外部からCSSJavaScriptを読み込んで、XULを簡単に変えられるようにすると良いのかもしれない。むしろ、MozillaプロダクトはGNOMEと調和出来ない。だが、Mozillaは結構悪くない。テーマファイルをURLを指定して、ネットワーク上から自動で読み込んでも、良いと思う。
ある意味、デスクトップのGUIコンポーネントを全部ネットワークから読み込む、と言う発想もなくはない。アドレスバーに別のURLを入力するだけで、デスクトップの全アプリケーションが変わる。使えないが、楽しいだろう。
ただ、それを実現するためには、高度な基本ライブラリを作る必要がある。全機能をダウンロードで行うのは、遅すぎる。OSの基本機能はライブラリに用意して、ガワだけをダウンロードすれば良い。
むしろ、わざわざダウンロードする必要は無くて、Mac OS XからWindowsまで、簡単に切り替えられるようにする。デザインだけを変えるわけではない。アプリケーションの見た目も含めて、全部変えるのだ。だが、OSの基本機能は、ライブラリに詰め込んでおく。だから、高速かつ手軽に、デスクトップ環境を全部変えることが出来る。
むしろ、KDEライブラリを使って、KDEアプリケーションではない、ADEアプリケーションを作る、と考えれば良い。それを簡単に作りやすくして、アドレスバーに入力するだけで切り替えられるようにすれば良い。そのうち、BDEアプリケーションを作る人間も現れるだろう。そういう、きちんとした多様性が、Linuxの強みになる。
ある意味、ADEなんかどうでも良くて、ただ、KDEアプリケーションを新しく作れば良い。AmaroKではない音楽アプリケーションでも作れば良い。特に、デスクトップ環境として、協調したアプリケーションを作れば良いのは分かる。KDEライブラリを使いながら、Lisaのように独自すぎるデスクトップを作ることは、出来るだろう。そこで、既存のKDEアプリケーションも操作出来ると良いのだ、と思うところだ。
ある意味、KDEライブラリを使いながら、タイル型のインターフェースとか、あるいは、ありえないインターフェースを作れば良い。それなら、オープンソースも独自性のあるシステムに見える。
日本の親の問題は、子供の言うことをそんなに簡単に否定しないでほしい。子供には、それを思いついた経緯や、親に話す経緯など、色んな原因があってそのことを言っている。それを、逆の意見だけで、簡単に否定するのが悪い。それは、分かっておいて欲しいことだ。子供には、分からない。子供は、分からない中で、良く考えている。何かをしたい、と言う意見にも、たくさんの積み重ねと分析があるのだ。
僕は、変わらなくなっただけなのが分かっていない。そして、考えていない。
ネットの本当の悪は、「みんなが他人を簡単に信用しなくなった」ことにあると思う。誰もが、知らない人間が悪い人間に見える。昔は、オープンソースフリーソフトを信用する人間も多かった。今では、普通の人間は信用しない。悪い人間が多すぎる。それが、ネットの最大の悪だ。
左翼が嫌われるのは、間違った人間がみんなのことを間違っていると言うからだ。だが、左翼もある意味では根拠のあることを言っている。正しいのは、左翼も間違っていることにして、みんなも間違っていることにすれば良い。自分は間違っていない、と思うのは、間違っている。だから、右翼も右翼で、自分のことを正しいと思うのをやめた方が良い。そこがキモいのが、右翼だ。間違った右翼がみんなを間違った人間にするのがキモい。悪いことをしても責めないから、悪いことをやめた方が良い。やめても、誰もあなたのことを陥れないし、批判もしない。僕は、あなたがもっと賢い人間になることを望んでいる。
日本人の賢い点は、最初から自分たちのことを優れていると思わない。劣っていて普通だと考える。そこが賢い。自分の力で這い上がるようになる。最初から、優れているなんて、期待しないから、馬鹿に悪い。馬鹿な人間に悪くする。
僕の経験から言って、自分を劣っている、馬鹿なのは当たり前だと思うと、賢い人間になる。だが、自分をみんなより賢いとか、誰かより優れていると思うと、馬鹿な人間になる。劣っている人間の方が、精神性が良い。その方が、神が良いことを起こす。みんなを馬鹿だと思う人間はおかしい。不思議と、テレビが悪い。いつもテレビしか見ていないから、自分のことを優れていると思ってしまう。馬鹿は普通でない。みんなはきちんと賢い。それら、みんなに学んだ方が良い。
自分が馬鹿なのは当たり前だから、馬鹿なことはしない方が良い。失敗なんかするべきでない。良く考えて、慎重に、失敗しないようにすること。僕は、漠然としたものを形にすることは得意だが、慎重に良く考えて行動することが出来ていない。常に間違えないのは良いが、それはそれで悪い。いくらか間違ったことも考えて、適切に選べば、賢くなる。
何もしなければ、人間は成長しないし、発見もしない。馬鹿なのは、何もしないからだ。だが、出来ないなら、しない方が良い。わざわざ失敗することをしてしまうと、後戻り出来ないだろう。何も出来ないのに、失敗する意味がない。もっと成功するための方法を考えれば良いのだ。間違ったことをしてはならないだろう。世界は、最近、間違いすぎて分からなくなっている。
ある意味、大人には成功と言うものがないから、馬鹿になる。芸術もピアノも、正解と言うものがない。自分なりの結果を作って、自分を信じるしかない。大人は当たり前に自由だ。それが、馬鹿をさらに拡大している。悪い人間が、自分を悪くないと思う。そういう発想が、トランプのような、成功者のオヤジだ。
むしろ、そんなに出来ることを増やすより、きちんとみんなで一緒に考えて決めた方が良く見える。悲惨な人間は、自分のことを相手に伝える能力が少ないのだと思う。みんなできちんと考える方が、自分だけでやるよりも、色んなことが分かる。自由は良くない。自由を良いと思うのはおかしい。最大限の可能性には、何も自由は無い。それは平等でなく、自分だけが勝ちたいだけだ。
ただ、社会主義は悪い。本当に目指すべきなのは、良い社会でも、発展する社会でもなく、破綻しない安定した社会だ。それが、保守的な自由だ。だから、大人にならないと、保守の良さは分からない。子供には正解がある。社会にも正解があるように見える。だが、安易に社会主義を実現しても、そこに正しさは無い。
最近は、子供にも保守が多い。だが、子供の保守は、どこか革新に重なるところがある。戦争で変わるとか、自然に発生するようにして、可能性を高めるとか、そういうアホな保守が多い。大人の保守には、馬鹿は居ない。完全に何も変えず、今のままを維持するような、そういう保守が大人に本当に多い。
そもそも、政府が会社を助けるのではなく、会社が自分で頑張れば良いように思う。それが、一番、経済力が強くなる。誰かに頼るのは良くない。だから、安倍やトランプのように、騙されるのだ。自分で頑張って、日本に貢献すれば良い。
デザインの賢い点は、結構数学が多い。幾何学だから、数学が多い。あとは、生物や歴史が多い。色んなことを知っていると、デザインの強みになる。逆に、哲学はあまりない。
デザインは、ある意味、工夫の連続のようなところがある。自分の出来ることを増やして、ネタを作り続ける。デザイナーは、そういう人間が多い。いくらでも引き出しを作って、いくらか変えるだけで何でもデザイン出来るようになれば良い。パソコンや小説が出来ると、出来ることが広がるから、自分はそこが賢い。
トランプは、「メイク・アメリカ・グレート・アゲイン」と言うが、マティスのことを「ヒー・イズ・グレート」と言っている。カタカナで申し訳ない。それくらいのグレートだ。それくらいのただの馬鹿なグレートな国にしたいだけだ。ただ、僕が思うに、トランプの人事はおかしい。一方では極右サイトの管理人を当て、一方ではロシアと関係の深い人間を当てる。これでは、閣僚と閣僚が対立して、それぞれが何も出来なくなる。何を考えているのか、良く分からない。
トランプが分かっていないのは、自動車だ。日本人がアメリカ車を買いたくないのは、かっこ悪いからだ。ドイツ車はかっこいいが、アメリカ車はかっこ悪い。そこが分かっていない。日本車は安い。
自分は、そんなに学校を嫌っても意味がない。学校は、正解や正しい考え方を教える。そういう、学校の考え方で分かる人間の方が多い。不思議と、正解は無いとはいうが、自由を信じると、分かる人間が多い。ある意味、馬鹿な人間は多い。自分が良いと思うなら、良い。それは、間違っていないが、もう少し、根拠を持って判断するべきだ。ある意味では、自由をただ信じても悪くはない。自分の経験が無ければ、分からない。人から聞いた言葉では分からない。そして、それぞれが好きにすることが、賢さを生む。アメリカが正しい。
日本には、法律に反さなければ、何をしても良いと思っている人間も多い。それが、自由と言うものだ。それぞれがしたいことは、しても良い。自由は悪くないが、宗教的ではない。ある意味、自由は良い人間だ。みんな、悪いことをしても、反省すれば良い。社会主義も、悪いわけではない。ただ失敗しただけで、自由と何も変わらない。
不思議と、普通、自由の無いものが悪い。そして、命を奪うものが悪い。戦争や支配や宗教が悪い。
だが、自分はそれすら肯定し、常識を否定する。常識では考えられないようなことを言う。支配しても平和になるとか、そういうことを言う。支配者が平和にすれば良い。そして、肯定も否定も、主観も客観も無くして、この宇宙全体の構造と具現化を作っていた。
自分は、自分のなりたいデザイナー像を作った方が良い。デザイナーになってから、どういう風に生きるのか、どういう風に仕事をするのか、考えた方が良い。デザイナーには、全分野出来る人間が多い。ひげぽんのように、プログラマーにもそういう人間が多い。ひげぽんは、それでトッププログラマーになっている。自分も、ネタを作りながら全分野出来るデザイナーを目指しても良いと思う。
僕は、あなたの不安も分かる。僕があなたを愛しているように見えるだろう。だが、同時に、愛しているわけがなく見える。ただ、本当のことを言うと、僕はあなたのことを何も知らないし、気にかけてもいないのだ。最初から、関係なんかない。それが、答えだ。
親が死ぬと、どう生きたら良いのか分からない、と言うのは、僕は良く分かる。本当に、判断しなければいけなくなると、判断出来なくなるものだ。
だから、アメリカとの同盟を軽んじる人間が馬鹿だと言う人間が多いのは分かる。だが、そういう人間に限って、民主主義を軽んじるものだ。子供は、無責任だが、大人は、馬鹿だ。
何もないゼロから考えれば良い。それは可能だ。自分がやりたいことを、みんながやりやすくなると良いだろう。国を作りたいなら、みんなが作りやすくする。それなら、独立性を高めて、共和国にし、天皇や皇帝より、民主主義にするべきだ。参加しやすい国を作っても良いだろう。いつも、そういうことを言っていただけだ。数学については、常識を疑いながら、「こんな風になったら良いな」と言うような発想を書いていた。
だが、自分は、王が王になってからのことを考えていない。一人の権限を強くすれば、その分、王は色んなことを出来やすくする。支配者は悪く見えて、支配者が善人であった時、その王が偉大な権力を行使することは、全員にプラスになるだろう。
ある意味、数学については、「その時分からないこと、分かることを、視野を広げて、決まりとして理解しやすくする」と言う発想が多かった。全体を可視化し、自動化し、たくさんの接尾詞や接頭詞をつける。法則を言語化し、分かりやすくする。
あとは、決まりにおける自由のようなことを考えて、意味を概念化する。環境をライブラリ関数にするとか、支配は分散化すべきだとか、そういうことを言っていた。きっかけから、自分の機会を与えて、教え、教わり、助言し、助言される社会を作る。きっかけの中で、たくさんの自分に合ったフィットするものを知る。みんなの情報と経験を知る中で、自分に適したものを見つけ出すのだ。
国家については、社会モデルを作る。生産手段の平等と、給与の自由は矛盾しない。全員に必要な基盤を全て与えて、労働を自由にし、給与をたくさん与えながら、会社を自由経済にすることは出来る。僕は、それを、システムを共有し、公開すると言っていた。
ある意味、日本は保守的な自由で、ソ連は保守的な平等だ。アメリカは革新的な自由で、中国は革新的な平等だ。そして、それは時に全体主義になるとともに、共同体主義になる。無政府主義は自由だが、帝国主義はどうなるのだろうか?いつも、そういう、「社会を説明する」と言う発想が多かった。逆に、グループのように、「説明から社会を作る」と言う発想が多かった。
あとは、人生と宇宙の網羅のような説明を書く。考え方から分かる人間、計算から分かる人間、言語から分かる人間、宗教から分かる人間、作って分かる人間、戦って分かる人間、が居る。それらは、自由、愛、真実、運命、考え方、構築、構造、記憶、習得、勉強に分かれると考えていた。
ある意味、国家的なひな形(例えば生産手段と組織)を作って、そこから具体的な国家(ロシアやアメリカ)を作り、社会現象(資本主義の問題点)を作り、現状分析と未来への展望のようなことを言って、行動や体験から哲学思想を考え、科学の変化のプロセスと学問的構造を同じようにひな形と具体的な知から作っていた。ロックのように賢かった。自由、環境、改善方法、発想、人格などを作って、科学的構造から、この宇宙のたくさんの現象の「本当に気付いた視点での考え方」を、絵を描くように描く。そういう人間だった。人生も、自分の人生を作って、具体的な人格を作って、脳と成長を記録し、考え方の網羅(なぜ、どうしたら、もし、かもしれない、などを、ハイデガーのように書く)を書いていた。認識から歴史まで、あるいは、哲学的考え方から実地的方法論まで、書いていた。本当に全部分かっていた。自由に考えながら、人々を導く。本当に、そういう文章を書いていたはずだ。
あとは、精神分析から歴史を作ったり、神羅万象の弁証論を書いたり、おかしなことをいくらでも書いていた。人生のことは、哲学者や人生的場面のようなことを言う。それから、ありがとうと言って、人々を心で支配し、現実では、宣言してみんなを導いていた。
あとは、宇宙を網羅し、手段を実現し、みんなを自分にして、全ての問題を解決していた。何も分からない中で、頑張ったが、所詮は自己満足だった。良かったのは、人々のために本気で頑張ったからだ。
そして、社会的考え方や経緯のようなことを言っていた。本当に、宇宙の全てを完璧に創造していた。
昔は、推論、実験、予測、裏の理由など、色んな数学的考え方を巧みに使って、自然から構造的成り立ちを発見していた。それがそのまま、文章にも表れていたと思う。
プログラミングは、手順を実行する代わり、手順しか実行出来ない。最初から、人間のやっていることを、ただ自動で出来るだけで、それ以上は出来ない。だから、実行するロボットは出来るが、見るロボットは出来ない。知覚をカメラやマイクで代用するのは分かるが、それも、データとして取得することしか出来ない。だから、自分の意志を持って、疑問を持つことは出来ない。私利私欲のために計算することは出来るかもしれない。だが、そんなものなのか、と思うと、パソコンって本当は何だったのか、分かることが出来るかもしれない。手順を実行するだけだから、人間の行動と結果を見ながら、それを自動でプログラムに変換するようなロボットは作れるだろう。オート・プログラミング・トレースだが、それが実現出来れば、コードを書くプログラマは要らなくなる。だが、本当は、「なぜ」その行動をしたか、と言う、目的が大切なのだと思う。目的通り設計されたページやフォームが作れるなら、デザイナーも要らなくなる。だが、しっかりと考えることまで、手順で出来るのかは、分からない。
ある意味、考え方の通り考えるロボットは、簡単に出来るだろう。難しいのは、考え方のない、純粋理性の部分であって、欲望を持ってその欲求を達成しようとする「野心」と、単純で純粋な比較や予想や思考を行う「単純理性」の部分が難しいのだと思う。
ある意味、手順しか実行出来ない機械だと思うと、「ただの道具」なのが分かる。むしろ、デザインが賢い。特に、HTMLのレイアウトは、結構賢いからありえない。デザインをするのが良い。パソコンなんか、ただの手続きを行うだけの道具に過ぎない。定義や関数の計算は出来るが、人間は作れないだろう。手順的に人間と同じように人間を実行することは出来るだろうが、それは生きると言うことを目的とした人間や生命ではなく、あまり意味の無いものだ。ロボットは、実現出来るが、作る意味がない。ロボットには、宗教的な運命のようなものが起きないだろう。一つ問題があるのは、ロボットは最初から記述されていること以外のこと、以上のことを、実現出来るだろうか?だが、ロボットはどうでも良い。パソコンは手続き的な手順しか実行出来ない。賢いのは、HTMLやグラフィックやワープロのような文字と画像のデザインだ。特に、ベクトルの図形のデザインに優れている。むしろ、もっと言えば、パソコンは文字の記録と配置が優れているだけだ。映像には、優れた点は少ない。だが、インフラとしてのネットワークは、新しい情報や通信の基盤になっている。そこでのサービスの提供は、通信技術として、安定した技術基盤を必要とする。パソコンはそれくらいだ。本来のプログラミングと言う操作は、そんなに賢いものではない。賢いのは、文字の記録、デザイン、通信インフラの方であって、プログラミングは、それらを実現する機械工学としての手段に過ぎない。ある意味、マルチタスクカーネルなんか、無くても良いのだ。プロセスやファイルの管理も必要ない。シングルタスクで、1つのCPUに対して1つのプログラムがあっても良い。OSは要らない。それで、データの方に、HTMLをもっと発展させたような、グラフィックス処理をして、最終的には、CPUとCPUをネットワークで繋ぐ。全体のシステムとして上手く行くように、CPUに対して記述するプログラムの親玉を決める。それが、電源処理をしながら、プログラムの入ったCPUをつけたり消したりする。そんなシステムでも、上手く行くかもしれない。最近は、人間が難しいことを何もしなくなった。もう少し、難しいことを考えるべきだ。
昔は、誰かが「何故それを思いついたのか」と言うことを、経験と前提知識から考えていた。例えば、研究室で一人、新しいノイマン型でないコンピュータ・アーキテクチャの研究に従事することは出来るかもしれない。だが、それは、そのアーキテクチャを思いついた研究者が、「何故それを思いついたのか」を知らなければ、本当の研究にはならない。僕は、そういうことを、ネットの認識を考えながら、自分独自に自分だけで分かっていた。そして、この世界の全ての認識、全ての発想、全ての前提、全ての環境を知っていた。ネットの世界で知りつくして、全ての科学を自分の力で作っていた。あとは、カーネルなんか、ただリソースを適切に配分するだけで、そんなに面白いシステムではない。カーネルなんか無くしてしまっても良い。ただ、カーネルを無くしただけで、新しい分散型CPU対プログラム一対一単純化システムは、今と何も変わらない。