「不思議だ」の日記

Assy(在導万創)のブログ。デザイナー見習いの作家です。小説と詩集と日記を書いています。

2016-09-27

知り尽くして、環境が分かるとか、そういうことを言っていた。
開拓のようなことをした。開拓の人生を書いていた。
ヘーゲルの言うように、現実の事実は歴史的過程である。
そろそろ、日本が終わった。日本人は、もうこれ以上経験しなくて良い。
本当に、もう既に全員、全ての経験が終わっている。
あとは、楽になるのが良い。
自分は、もう少しすれば、神が願いを叶えてくれる。神は、「叶う」と言った。
そういうわけで、もう入力はしない。勝手にいつかしてくれる。
パソコンの空き時間にがんや白血病の治療法のデータ計算を行う、UDというソフトウェアをインストールしようと思う。僕は、最近良いことをしていないから、良いことがしたい。
ネットを見ていると、残念なことに、UDはもう計画終了したらしい。つまらない。
日本人は、経験が終わったのは悲惨だが、もっと他の国や辛い人々に対して良いことをすれば良い。
それは、不思議と、日本人が一番出来る。しないのがおかしい。
経験はもう終わった。むしろ、仕事もきちんと出来て、きちんと考えた人間が、たくさんのことを経験して全て分かっているから、自分より賢い人間が多い。
自分は賢かった。自分のことも、もっと賢いと思った方が良い。
テレビに勝つためには、思わせぶっておいて、本当はしなければ良い。
意図と義務が同じになっている。
僕が政治家になった時は、過激な政策はしない。だが、穏健派の何も変えない保守派にはならない。
自分の意見を持って、改革をたくさん行うような、「正しい政策」と「奇抜な発想」をする。
ただ、それらを、簡単に暴走を許すのではなく、「慎重な姿勢」を持って、「国民と直接に対話」するような、そういう、実地的かつ建設的な発想をしたい。
だが、現実主義になるわけではない。たくさんの、独自の発想、奇抜な発想、独創的な発想をする。そして、既存の政治の問題点は、「変え過ぎる」ことのないようにはするが、「変えない」のではなく、「必要な部分を、必要に応じて、適切に、最低限かつ同時に最大限に」変えていく。そして、それは、影響力に高みに立って、「最も効果的なポイントで、最も効果が得られるような形で」行っていく。
それから、環境は「本質とビジョンのある、方向性と現実的手段を同時に成り立たせる」ようにする。そこから、コンクリートより教師の数を増やすなどの政策で、「確実に変えられる」ことを知った上で、「潜在的可能性を生み出す」ような政策をする。
ただ、抽象的なことばかり言っている。社会を作り出すとか、ノルマを自由にするとか、そういうコミュニスト的な自由は要らない。自由なんか、最低限しか、ない方が良い。誰もが、従うことの方が好きだ。みんなで決める、みんなの経済を、ソ連のような強制力と権力で行うのではなく、自由に行いたい。悪いことはしたくない。
合理主義を否定するわけではない。だが、初期的な投資の方が、恒常的な消費より、多くのものを生み出す。逆に、恒常的な安さや価格の下落の方が、消費者から見ると、経済効果は大きい。それから、競争や多様性とは言うが、競うべきところは競い、統一するべきところは統一する。そこから、最大限の効果を持つ、パフォーマンスのある強い経済プラットフォームを作りたい。
抽象的な話になってしまったから、具体的なことを言いたい。僕は、日本を、「他人の痛みが分かる国」にしたい。そのために、青年海外協力隊などを通して、世界へ貢献していきたい。それも、軍事的にではなく、経済的、文化的に、国民同士の繋がり合いを増やしたい。日本の出来ることは、最大限アフリカやアジアの国に、投資し、協力し、助け合っていきたい。
恒常的に使うものの価格を下げ、投資を拡大し、富の再分配を持続可能な手段で行い、青年には手段を与え、起業を支援し、教師の待遇を改善し、教師を増やす。経済的には、そういうことをすれば良い。独立性を高めるのは良いが、それは、自由にすべきところだけを特別に自由にする。
僕は、最近、独立性は無くても良いと思うようになった。共有もしなくて良い。だが、議論する自由、関われる自由は、あった方が良い。大企業が、もっと消費者と、ネットワークで繋がれるようにして、人々が会社に参加し、関わり、コミュニティとビジネスが連携するような、そういう「新しい関係」があっても良い。「繋がる」だけではなく、「参加する・意見する・変えられる」ようにする。書籍で言えば、沢山の人々が編集に関われるような、そういう新しい会社の形を作っていくと、創造的だ。
それから、仕事はネットで出来るようになる。それも、IT技術で自動化や共有や参加が出来るようになる。会社でデータ入力をするのではなく、家庭からネットで出来る。そして、学校の授業も、ネットですることで、今の学校よりも多様で色んな種類の専門科目のある、「超クラス教育」をする。そういう、ある意味ではどうでも良い発想もした方が良いだろう。
超クラス教育は、面白いかもしれない。フランス語やドイツ語も、学びたいなら、たくさんのクラスから選ぶことが出来る。部活と一緒になって、おそらく、自動車の技術だけを詳しく学ぶとか、そういう発想が出来る。世界と繋がって参加することで、トヨタやホンダの社員とコミュニティが一緒になって、学生と技術者が新しい自動車を設計・製造するようなことが出来るかもしれない。
未来の世界は、経済力が豊かなはずだから、もっと書籍や百科事典を無料で、各家庭に全員与えるようにする。内容は、それぞれの学習段階によっていくらかのレベルが存在し、自分のレベルから学習が始められるような、そして、必要な単語を簡単に調べられるようにCDデータとソフトウェアも付属して、文学から物理学まで、あらゆる分野をカバーした、百科全書のような書籍の各シリーズを与える。子供から大人まで、全家庭に、無料で与える。
そして、ネットで自由にたくさんの教科を選んで、宿題などはそれぞれの自治区の担当の「教育グループのスタッフ」が見る。それは子供と対等に話し合えるスタッフであって、命令する教師ではない。教師、という存在は居なくなる。不登校の問題を解決するためには、教師もクラスメイトも消滅させるしかない。もっとまともなコミュニティを作った方が良い。それは、現実世界の方が良いのは分かるが、フェイスブックのようなネットのシステムも活用するべきだ。
自分の空しい点は、そんな風にしても、正常ではない、異常な社会になるだけだ。それに、そんなに子供を賢くする意味がない。誰でも、普通に競争や社会経験をすれば分かる。もっと空虚な点は、自分より、みんなの方が経験している。それから、みんなの経験なんか、もう既に終わっている。そういうわけで、こういう政策は、してもあまり意味がないだろう。きちんと国語と算数を教えた方が良いと思うし、僕はこんな政策を本気でやりたいとは思わない。
自分は、教育のことは、分かっているように見えて分かっていない。学校が悪いのは、環境的要因ではなく、教師に問題がある。何でも「ハイ」と言って、意味の無いことを無理やりさせる。宿題をしない人間を馬鹿だということにするのはおかしい。そのせいで、学校は誰もが真面目なエリートが嫌いになる。自分が悲惨だったのは、そういう学校のおかしな点が分かっていないからだ。そんなに真面目な人間が、こういう悪い人間になる。だから、自由に気ままに、オープンに教育を行った方が良い。自分は、昔から、そのようにオープンな活発さと友愛の自由が好きだった。全て、自由にしながら環境を変えるべきだと信じていた。そういう子供だった。
学校に居ると、先生が「しましょう」と言ったことは何でもしなければならないと言う錯覚に陥る。そして、相手がすることに拒否出来ない人間になる。昔から、自分はそれで悲惨だ。
それこそ、いじめる方も、いじめられる方も、学校というシステムとやり方と環境が悪い。昔の自分は、そこから考えて環境のことを「自由に」分かっていた。だが、自由は問題ではない。問題は、学校のやり方そのものにある。それは、どこかで分かっていた。
自分は、そんなに言葉を場で支配する。昔から、それだけの人間だ。だが、それは意味がない。
そろそろ、学校が治った。そうすると、パーキンソン病になっている頭が治る。
赤ちゃんに戻った。要は、先生が「しなさい」と言ってもしなくて良い。する義務はない。
木星の衛星エウロパに水があったらしき証拠があったらしいが、これは宇宙の生命が居る決定的証拠だと思う。ただ、どんな生命が居るかは分からない。水がそのまま生命ではない。
ロボット人間が見えていたのは、学校が見えていただけだ。最初からロボット人間では、おかしい。
ネットなどで、自分の言ったことを、他人が言ったことのように、結果を客観視で分かっていた。
学校は間違っている。「姿勢」を身につけさせ、ロボットにするのは、人間をクズにしている。
昔は、発言を想定して、環境を支配していたが、それは全部、小中学校が悪い。
高校で勉強しなかったのが賢かった。もっと実のある、正しいソクラテスのような経験が出来た。
自分は、自分が独り支配者をやるせいで、みんなが何も出来ないのは分かる。だが、それは、自分が独りで努力を勝手にやっているせいで、みんなは何もしなくて良い、ということと同じなのが分かっていない。自分がきちんとみんなのためを思って行動するせいで、みんなは楽になった。最悪の悪人に見えて、最高の善人が自分だ。ただ、それを言うとおかしい。一番悪い。
神は「右翼は正しくて、左翼が強いのが良い社会だ」と言っていた。それは、ヒトラーとレーニンのことを言っている。ヒトラーが、正しい王で、レーニンが革命家だ。王が正しく従えて、革命家が強くなれば、社会は良くなる。
ただ、そういう、政治思想は言わない方が良い。むしろ、神も止めた方が良い。
僕は、何も出来ないのに、みんなのために頑張りたいから、そういう風になる。そういうわけで、悪い人間は、みんなのために頑張っている人間が多い。それが意味がないから、悪くなる。そういうわけで、意味がないのに努力なんかしない方が良い。良い人間は、頑張っていない人間の方が多い。そういう人間は、むしろ、辛くないと賢くなるから、そうなる。楽は賢い。
神は、自分のことを「普通だ」と常に言う。それは、若者でキリスト教徒になるのは、こういう人間が多い。キルケゴールも、こういう風に、クズになって、その後に何かで宗教になった。キルケゴール自身も言っているように、絶望と内面化で分かった。それが、神になる人間が一番多い。普通、おかしな戦いをして、地獄になって神になる。ユダヤ人も、ドイツ人も、誰もがこういう人間だ。自分が一番賢い。宗教でない人間も多いように見えて、居ない。
学校が終わったせいで、きちんと分かる。
自分の悪い点は、キリストからブッダまで、見境なく色んな宗教を信じている。そこが悪い。ユダヤ教多神教を悪いとするのは、そのせいだ。キリスト教イスラム教を同時に信じてはいけない。
そういうわけで、自分の場合、キリストも、ブッダも信じない方が良い。自分の作った、自分だけの新しい宗教を信じれば良い。神は自分だ。その方が良い。
神とは言うが、キリスト教の神は誰も話していない。自分の作った、自分だけの神が、自分と対話している。仏教キリスト教の影響を受けたようで、そんなに受けていない。自分は賢い。
そういうわけで、僕は異教徒だが、むしろ、異教徒も異教徒で悪い。キリスト教徒は、異教徒が一番嫌いだ。だから、あまり意味がなく、僕は普通に仏教徒だ。いつも、仏教を信じている。それはそれで、自分の家の宗教だ。ただ、神も言っているように、自分が神だ。
この神を信じると、ありえないことが人生でたくさん起きるようになる。
バッハを聴いているが、バッハの面白い点は、音楽で「考える自己」のようなものを作っている。
音楽で人を作る。それが、バッハだ。
人間は、一度信じたこと、過去に信じていたことが、正しいか、間違っているか分かると賢くなる。
神は、確かに良い体験は出来る。だが、神にまかせっきりになったり、盲信してはいけない。自分の考えられる範囲について言えば、自分で考えないといけない。ただ、ある意味、神を信じるなら、神は信じ方によって、きちんとその人に努力の報いを与えるから、ある意味、どういう風に信じても良い。だが、自分で考えること、行動することを放棄してはならない。
自分は、「自分の精神を治す」という目標がどうでも良いのが分かっていない。
昔から、OSやLinuxを作るとか、科学を作るとか、神と対話するとか、世界に全て詰め込んで全員を分からせるとか、そういう発想をするが、それらは、意味がない。
学校のせいで、意味の無い目標のために取り組むようになったが、それは本当に学校が悪い。
一度、意味の無いことを完全に止めれば良い。そうすると、不思議と、血が良い血になる。
バッハの面白い点は、流れるように音を奏でる。そこが好きな人間が多い。
自分のおかしな点は、過去の自分のしていたことや、好きだったものを否定することだ。
昔の自分のことは、否定しなくて良いだろう。分からなかったことが分かったのは良いが、中学校の教師だった人間が、過去の自分の教師だった経歴を悪いと思って、「中学校は要らない」といったことを言っても、ただ悲惨なだけだ。自分は、過去の自分を悪いと思うから狂っている。
思い出して、その時どんな環境に居たか、何を考えていたか、何をしていたか、思い出すこと。
昔は、ネットを見て、引き篭もりとして家の中で生活して、ある程度自立して経験で分かっていた。
経験と意識によって、真実の体験が全て分かった。
科学は、科学者のように、構造を作り直して分かっていた。経験から科学の構造を作っていた。
そして、経験から、一つ一つのピースや部品を細かく考え、いくらでも体験することで、経験論の哲学を作った。考えることから、知性や「向き合い方」のような考え方を知った。
昔は、誰も知らない中で、一人、分かっていた。独りでこの世界を知って、独りで、この世界の知を作り直して、独りで経験して、独りで全ての作り方や起源を知って分かっていた。
誰も知らない中で、心理学や経済学を考えた、孤独だがネットに友人の絆を持った、経験から意識と歴史の分かる、Linuxの孤独な経済学者のような人間だった。
構造は自然に出来て、経験論のように作った。成長して、自然な経験から出立し、1つ1つの構造を自然に生み出すことで、あらゆる分野の知を総合的な科学者のように、経験から分かっていた。ネットから構造を知った、神のような人間だったが、普通の人間で、同じ経験をすれば、誰でも同じように分かると思っていた。そういう、「誰にでも分かるように知る」が、僕のテーマなのだと思う。
昔は、他人の視点に立って、みんなの分かるように常識的な哲学的考え方を分かる、とか、社会のことをあらゆる人間の考え方を包括する視点で分かるとか、そういう自由な発想が多かった。そういう風に、理性批判をしていた。
パソコンは、ネットワークを使って、ロボットのようなシステムを作ることが出来ると良いだろう。
神が好きになれば良い。自分は、神のことを好きになれば治る。