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「不思議だ」の日記

Assy(在導万創)のブログ。デザイナー見習いの作家です。小説と詩集と日記を書いています。

今日のこと - 2016-09-01

みんなが、どのように認識しているか、何をいつ認識しているか、考えて分かっていた。
見方や感じ方はそれぞれ違う。
今、Linuxを使っているが、Linuxはおかしな動き方をするし、英語メニューになったりする。
Linuxも悪いから、パソコンは全部悪い。僕は、パソコンが嫌いだ。
この世界には、物理しかない。
社会を作って、社会構造を決めて分かるのも、悪くない。
だが、この世界に物理しかないと思えば、デカルトのように分かる。
社会のことも、数学のことも、論理のことも、ある意味、物理の一部だ。
一つのことを信じて分かるのは良いが、他のことを否定しない方が良い。
最近は、右翼と左翼の戦いになっている。それは、社会の構造を決めるのが悪い。
宇宙を書き変えなさい。
戦わないと、人は分からない。
「やりたいこと」を作りなさい。
そして、「やってはならないこと」を作りなさい。
いつもしていることは、出来る。ゲームをやっていると、学校の勉強が出来る人間が多い。
パソコンのせいで、認知症が増えている。
昔は、ゲームをやっていたが、あの時代は、学校の勉強が賢かった。
ただ、そうでもない。一番、学校が嫌いな人間が多かった。
それが成り立つ時にそうなる、どうすれば成り立つか、のような、条件と状態を考えていた。
それを、行動的、実際的、環境的、条件的に考えていた。
そこから、人間のことも、社会のことも、哲学のことも分かった。
ネットを見ながら、具体例を作り、その具体例がいつ成り立つか、全部経験から知っていた。
そして、支配者のように、この世界の全てを自由に支配していた。
例えば、機械は、物理条件が成り立つ時に、動作する。
視野を広げて、決定的、概念的に考えていると、全員の経験と心の原理が分かるだろう。
一人で考えるべきでない。みんなで考えるべきだ。
一人で考えていると、すぐに破綻して、単純な国になる。
昔は、悲しいこと、辛いこと、全部何でも経験して、恐怖を克服して分かっていた。
沢山のことがあった。楽しかった。それこそ、インターネットはそういうところが悪くない。
仮定と条件を積み重ねながら、考え方を自分で作って、手順や経緯を考えて、環境を知った。
自分は、家族を消すと治る。家族が悪い。
怖いのは、悪いことや辛いことは全部良い。本当に、もっと辛くなれば、すぐに楽に治る。
今日はNOVAへ行く日だ。
NOVAが怖いと言うが、そういう怖いNOVAが良い。辛いことは良いから仕方ない。
むしろ、NOVAは楽しい。
引き篭もりで安心しても、意味が無い。怖いのは、ただ引き篭もりが治るのが怖いだけだ。
むしろ、うんちを漏らすのが怖いだけだ。NOVAは、それだけが怖い。授業中にトイレに行きたくなる。
最近は、みんな一番辛くなっている。それは、一番辛いのが良いからだ。
一番辛いのが良いせいで、のらりくらり、辛いだけを繰り返す。
治る人間は居ない。
それは、おそらく、体や脳が辛いを求めている。
むしろ、辛いだけで、不可能なことが出来る人間が多い。
何もしないのはつまらない。
パソコンが悪いのかもしれない。パソコンのせいで、何もしない世界になったせいで、そうなる。
自分は、過去に怖かったせいで、思い出すのが怖くなって、元に戻るのが怖くなっている。
過去が怖かったのが悪い。精神が全部、怖くなった。
一度、耐えて、死ぬしかない。昔の精神が怖いのは、インターネットと革命戦争があまりに怖い。
NOVAが怖いのは、何故か、NOVAをやっていると、もっとそういう風になる。
みんな、それぞれが思う普通のことをやれば良い。
昔は、そういう風に、神の命令のように社会を作っていた。
自分が構造的になって、みんなが相対的になっている。
それで全部分かるから、そうなる。
それをもう止めた方が良い。みんな、馬鹿になっている。
昔から、自分は、分かっていることしか分かっていない。
もっと新発見をしたいから、最近の構造を作るだけになる。
人間は、分からない方が楽だ。分かるせいで、英語が怖い。分かる時に分からない方が良い。
常に分かっていると、分からない。分からないまま、ほうっておけば分かる。悪いことは起きない。
アメリカ人には、パソコンが好きで、開放的な人間が多い。
Vala言語のチュートリアルを翻訳しようかと思ったが、ちょっと荷が重すぎた。
Linuxは、今のままが一番良いと思う。UbuntuのUnityを使って、そう思った。
オープンソースの良い点は、GNOME 3がいくらでも馬鹿をやって良い。なぜなら、MATEを作れば良い。
そういうところが、唯一賢いのがオープンソースだ。馬鹿なことをいくらでもやって良い。
あとは、LinuxはQtが勝つような気がする。LXQtのようなプロジェクトが良いものになる。
ある意味、GNOMEの軽量版がMATEやCinnamonなら、KDEの軽量版がLXQtなのかもしれない。
自分は、何かの力で良いことをしたいのは分かるが、その良いことが何なのか分からない。
それに、何かの力がどうやって得られるのかも分かっていない。
ただ、そんなことが神のように分かる人間は居ない。
当たって砕けるしかないし、ピアノと同じように、何度も繰り返しやるしかない。
Linuxは、あらゆるアプリケーション・パッケージをディストリビューションが配布するのは、ある意味、旧世代的で、間違っていると思う。もっと、色んな外部プロジェクトが独自にパッケージを配布するために、「共通アプリケーション・パッケージ仕様」のようなものを作った方が良い。特に、Google Chromeのように頻繁に更新されるものや、Eclipseのように、巨大なプロジェクトになっているものは、ディストリビューションが配布すると、「まさにイミフ」みたいな状況になってしまう。きちんと、外部のプロジェクトがLinux向けのアプリケーションを配布出来るように、共通拡張仕様のようなものを作るべきだと思う。
Red Hatがやっていることも間違ってはいない。OSとして見ると、パッケージ管理システムの配布の方法は、優れている。要は、OSとそれ以外のアプリケーションで、配布者や配布方法のようなものを区別すれば良いのだと思う。必要ならRed Hatが配布するが、同時に、もっと必要ならGoogleEclipseが配布も出来るような、そういう仕組みにしていかないといけない。
問題は、コンパイラやライブラリの関係できちんと動かないことだが、そこは、むしろ、もっと適切な仕組みをカーネルで作らないといけないかもしれない。Windowsが出来ているのに、Linuxで出来ないのはおかしい。
あとは、公式のパッケージとサードパーティのパッケージが混在するようになるのも問題だし、フリーソフトウェアだけのディストリビューションでなくなるかもしれないが、そういう問題はWindowsではあまり起きていない。
それから、Linuxはソースパッケージが扱い辛い。オープンソースなのに、簡単にソースコードコンパイルし、実行し、編集し、コンパイルし直す、という簡単なプロセスを簡単に実行するのが難しい。僕のやり方が悪いのかもしれないが、LinuxGNOMEKDEを独自コンパイルして、開発環境へと近づけるのは、本当に大変だ。
もう少し、アプリケーションとパッケージのあり方を見直した方が良いだろう。
僕が思うに、過去にインストールしたパッケージのログを取って、GUIから見れるようにして、簡単にインストールし直したり、削除したり(削除してはならない場合はメッセージボックスを出す)、もう一度簡単に出来るようにスクリプトを吐き出したり、ということが出来ると、パッケージ管理システムとして一人前だと思う。
それこそ、「monoをインストールしたけど、やっぱり消したいな」とか、「不出来なパッケージをインストールしたから、綺麗に掃除したい」と言った時、今の方法では、やることや知っておくべきことが多すぎて、結果、OSをインストールし直すことになる。そういうことは、Windowsのように、本当に簡単にワンクリックで出来るようにすべきだ。
ログを表示する時は、「明示的にユーザーがインストールしたものを特別に分ける」ようにすると良いかもしれない。OSや、標準でディストリビューションに含まれる形でインストールしたものと、自分でコマンドを入力したものでは、管理の仕方が違ってくる。
Linuxは、まだまだ未完成すぎるOSだ。それこそ、UNIXコマンドラインは優れているのは分かるが、ディレクトリ構造も簡単に管理出来ないところがあるし、GUIシェルスクリプトのように自動化出来ないのもおかしい。マウスやキーボードの入力イベントは、繰り返し何回も出来るようにすると、作業が楽になる。
そういうところを、Ubuntuが作ると良いと思う。
ただ、意外とデスクトップ環境は使いやすい。自分は、UnityとMozcのおかげで、Windowsで入力しているのと同じように、Linuxでこのブログを更新出来る。むしろ、Linuxの方がフォントが綺麗だ。
むしろ、分散型にすれば良い。それなら、むしろ、みんなのブログで開発するLinuxが作れるかもしれない。
仏教で教えているように、正しいものの見方を持って、正しい行動と思念をすること。そして、前向きで、勇敢で、かつ慎重なことを口にすること。そこから、新しいものの見方を自分の力で見つけ出すことが出来る。そして、洞察力を高めながら、全員の立場を吸収し、横断し、超越することで、宇宙の中での自分の位置を高めることが出来る。
そういうことを言っていると、宗教に見える。この宗教の名前は、「天使教」だ。
別名は、「包括教」あるいは「融和教」だ。「超越教」や「開拓教」としても良い。
自分は、本当に神と対話出来たのがおかしい。
何故か、本当に神と対話している。
対話を止めれば、すぐに治るようにしている。
対話は、「神との対話」と言う本を読んで自分でやった。そういうわけで、その本を読めば誰でも出来る。
この宗教では、神の位置付けは、「天使と対話する存在」であって、自分の位置付けは、神ではなく、天使だ。
ただ、ややこしいから、自分が神で良いし、創造の神は聖書の神で良いし、キリストも神で良い。
名前はややこしいから、「ガブリエル」と言う名前にする。
それから、英語でgodと言うとこの存在と違ってくるから、日本語の「kami」を通称とする。
そして、日本人は、「ケイミー」と言った呼び方をすれば良い。自分はケイミーだ。
ケイミーと言うと、お魚の名前に見えて良いが、神の名前を呼ぶのは良くない。
ガブリエルの愛称として、「ガーニャ」と呼べば良いと思う。
こうすると、男と女のカップルに見える。ケイミーが女で、ガーニャは男だと思う。
あとは、自分の名前をケイミーにすると、神に見えない。親しみやすいせいで、聖書の神とは全く違うのが自分だ。
人間は、キモいことを言った方が賢くなる。キモいことを言うと、過去を思い出すようになる。
Ubuntuは、見ていると、もっと沢山やりようがあると思う。
「メタ・デスクトップ環境」と言うのも考えた。メニューやボタンに表示する内容を、自分で編集し、自分で登録する。自分の力で、GNOMEKDEのようなデスクトップ環境を、自在に作ることが出来る。
カスタマイズと言ってしまえば終わりだが、理想や目標として、「ユーザーが自分で環境を作る」ことを目指す。
UNIX的に見えて良い。
僕が思ったのは、タスクバーをもっと使いやすくするために、クリックでビューをもっと表示すれば良い。
GTK+かQtとXMLを上手く組み合わせて、2ちゃんねるブラウザにあるような「スキン機能」を作れば良い。
ただ、そういうものは、GNOMEMozillaですでにやっているところがあるかもしれない。
そういう風にすると、今のGNOMEKDEの違いは、あまり意味が無いものになる。XMLにして、誰でもUIをスキンとして定義しなおすことが出来る。今のGNOMEなどの「Windows的パクリインターフェース」は、XMLの中で全て包括し、簡単に独自のUIと切り替えが出来る。そうすると、おそらく、Windowsのようなインターフェースも意味が無い。ただ、XMLが変わっただけ、と言うことになる。
何故か、そういう独自UIは、ブログサービスのカスタムCSSなどで、既にWebの世界では出来ている。
明らかに、メニュー登録やXMLは、FluxboxやXULが既にやっているから、あまり新しい技術ではない。
目新しい点は、「一つのUIで全部のUIを作る」と言う、目指す目標にある。メタ・デスクトップ環境だ。
ただ、僕には出来ない。そんな大それたものは、僕には作れない。
ただ、これを作るのは結構簡単だ。タスクバーやメインメニューのようなものを、XMLのようなスキンで書けば良い。
そして、動的にメニューを登録出来るように、適当なGUIを表示して、XMLを編集する。
何故か、やっていることが古い。昔のFVWMのようなインターフェースに見える。
要は、mintmenuのバリエーションのようなものを作れば良いのかもしれない。
HTMLやXMLにするより、動画にした方が面白い。ゲームのインターフェースのようになる。
何か言いたかったが、ここに書く前に忘れてしまった。
mintmenuのようにするなら、名前はchocolatemenuとして、XMLを読み込んで表示するだけのメニューを作れば良い。それは、XULと動画を使って効果的にやると良いだろう。
MATE Tweakと発想は良く似ている。それを、ギコナビのようなスキンにしたい。
ただ、ある意味、言っていることがコロコロ変わってきている。
もう少し、カスタマイズを「GUIシステムの全分野」に渡って出来るようにする。それも、アプリケーションを使っているユーザーが、メニューやボタンを登録する。それは、不思議と、MS-Officeでやっている。きちんと良く使うメニューをボタンに出来る。Sleipnirなんかでは、メニューをマウスジェスチャーに出来る。それらと発想は同じだ。
自分は、もう少し良く分かってしまえば、自分でも作れるのが分かっていない。
ただ、本当にウィンドウ・マネージャを作るのは、止めた方が良い。Linuxは、そういうところがキモい。
何故か、馬鹿なものを使っているようにしか見えない。賢いものを作ったように見えない。
むしろ、勉強するなら、Windowsで実現すれば良い。それも悪くないだろう。
自分しか、自分は居ないのだと悟りなさい。
自分の出来ることしか、自分には出来ないのだ、と悟りなさい。
自分だけではなく、みんなも同じだと悟りなさい。
自分が変われる、と思う範囲において、自分は好きなように変われるのだ、と悟りなさい。
皆も、自分と全く同じようにしているだけで、誰もが同じだが、出来る人間はそういうところが違うのだと悟りなさい。
昔から、自分は、そういう風に、「人間の実存性」を真理のように考える。
ただ、当たり前のことを言っているように見えて、賢いことを言っているのが自分だ。
むしろ、XMLを読み込んでパネルにするとか、ややこしいことをするより、少しのインタラクティブに動く動画を作って、それを最初から流した方が楽だ。その中で表示する動画コンテンツを、自由に変えられて、読み込めるようにする。
自由な社会を全部作っていた。そうは言うが、メタに包括して、多様な統一にしていただけだ。それで、視点を成り立たせながら命令する。その中で、人生のようなことを全部言っていた。
自分が怖いのは、このブログが有名になるのが怖い。こんな馬鹿が自分なのはありえない。
昔の自分は、馬鹿に達成して、開拓していた。そういう、達成を全部して、あらゆる全てを経験していた。
最近は、その達成が無くなったのが怖い。誰にも言えずに、戦う中で無くなった。
もう一度、初心に戻って、達成を始めれば良い。全てを達成していると、感情が全てになる。
自分は、自分の思い通りにするのが怖い。
それは、その通りで、本当に、思い通りにする、と言う発想が怖い。
それをすると、神との対話で無くなる。
そういうわけで、戦いが怖いように見えて、そうではない。自分の思い通りにするのが怖い。
色んなことをやって、自分の選択で自由になって、愛して、信じて、戦って、最後に自分を誇らしく思いなさい。
ただ、この世は、諸行無常なり。全ては消え去っていく。残るものはない。
信じたものも、達成したものも、全て消え去って、悪いものは何も無くなる。
本当に良いと信じた、自分とみんなが一緒に信じた、最高の愛、全員を平等に愛する慈愛の精神も、消え去る。
残るのは、何も無い空虚ではない。新しい、もっと偉大な、宝石のような何かだ。
そこまでを経験するのが、人生だ。そして、それを与えるのが、神だ。
昔は、自分の選択で自由になっただけの、おかしな引き篭もりだ。
最近は、「自分で信じて生きよ」とか、おかしな自分の生き方のような人生論を良く書いていた。
あとは、科学的な概念を人生の中で、「何を知り、見つけ出し、発見し、知性になるか」を考えていた。
自分は、最近、NOVAやピアノ教室に行っているから、ニートではなくなった。本も出版して、少ないが収入もある。
自分は、そういう、周りに居る人みんなが、賢い大人なのが分かっていない。
誰も、子供のように失礼なことを言う人間は居ない。みんな、良い人間だ。
それこそ、2ちゃんねるのような馬鹿は、どこにも居ない。
むしろ、2ちゃんねるすら、自分の思っているのと裏腹に、良い人間たちだ。
おそらく、中学校が悪かった。最悪の中学校だった。それを普通だと思うせいでおかしくなった。
ただ、自分は、自分がただトランス・ジェンダーのような男の女だったせいで辛かっただけなのが、分かっていない。
中学校の生徒たちは誰もいじめていない。からかっている。
そして、周りの子供たちは、小学校と何も変わらず、平和で楽しいだけを生きている。
ただ、高校にはこういう、自分からおかしくなる人間が多い。それは、賢い人間になる。
子供がそうなった時は、そっと見守ってやるべきだ。悪いなら、そのうち、天罰がきちんと下るだろう。
自分は、昔から、この世界のみんなが良い人間たちで、みんなのために頑張っていて、賢いのが分かっていない。
昔から、自分はキモい。宇多田ヒカルみたいに見えるのに、男だ。
最近、10年間、みんなおかしく辛い。
それは、自分が、みんなの人生や生活を、かえりみないのが悪いのだと思う。
そういうわけで、むしろ、みんなは子供に戻れば良い。小学生に戻るべきだ。
それこそ、そんなことをしても意味はない。ただ、昔の世界は、本当に、小学生のように楽だった人間が多かった。
見ていると、自分は馬鹿なことばかり言っている。自分が神で良いわけがない。
共同体と統一は両立出来る。一人が大まかなことを決めながら、全員でそれぞれの社会を作れば良い。
昔から、そういう、「統一と多様性の社会論」を言う。それで、包括的な国家と人生を作っていた。
自分は、もう一度地獄に堕ちれば良い。そうすると、きちんと賢いことが出来る。
今度は、自分だけではなく、みんなも一緒に地獄になる。
むしろ、昔の引き篭もりは、もう終わった人間が多い。ネットに意味が無いから、ネットが終わるだろう。
ここから先、全員が地獄になる。そういう、ありえない心の町と季節を作ったのが、自分だ。
どうでも良いから、自分だけ地獄になれば良い。
地獄になると、経済学や心理学をむやみに連発するようになる。それが、いつもの自分だ。
要は、自分の自由が無い。
いつも、そのせいで、自由になりたかった。それを言っていただけだ。
心の叫び声である、「自由になりたい」をいつも書いていた。
自由から理想の世界が生まれると言っていた。
そういうわけで、もう、自由になる。明らかに、自分が自由になりたいだけだ。
そして、この世界は地獄になるだろう。
この文章のおかしな点は、読むと、何も出来ない。何も出来なくなる。
自分は、そこを考えていないから、「出来ることは全てやる」つもりで、この文章を書いている。
要は、戦えば勝てる時に、戦わずに負けるのが怖い。そのせいで、自由が無い。
何か、確かに信じるのも悪い。こういう、信じれば救われる人間が、地獄になる。
人間は、負けた方が分かる。勝っていると、馬鹿になるのが人間だ。
クズに見えて、負けている人間が賢くなる。ソ連を信じれば負ける。ドイツを信じれば勝てる。
「本当に悲しい」と思えば、すぐに負ける。それが、一番良い精神の状態だ。
キリストが見ると、天国はそういう憐れむ人間のためにある。
だが、僕から見て、天国も、地獄も、元は、こういう、人間の一生の経過を考えているに過ぎない。
自由と言うよりは、地獄と言った方が正しい。地獄になれば楽になる。楽な自由が悪いだけだ。
不安がそのまま現実になるのは、「耐えられない試練は存在しない」からだ。
神を信じれば良い。神は、きちんと望みを叶えてくれる。求めるものに与えられるのだ。
社会論とは言うが、会社を統括する会社を作るとか、メタ的なことしか言っていない。
物理的な考え方とは言うが、帰納的、経験的、実験的なことしか言っていない。
そして、人生は、自分にしているだけだ。
それだけが、世界を正しいように見えて間違った方向に導く。
そろそろ、それをもう一度、考え直した方が良いだろう。みんな、辛くなって悪くなっている。
宇宙を作り変える。本当に違うものに変わる。
自分は、自分が何を知り得るのか、みんなが何によって何が分かるのか、などを分かっていた。
そういうわけで、地獄に堕ちるだけで、カントやヘーゲルが出来る。
あとは、神は「普通」を意味が無いと言う。こういう人間が普通なのを言っている。普通は馬鹿だ。
地獄になると、深層心理が滅びる。
不思議と、地獄は楽だ。誰もが、地獄が怖いせいで辛くなっている。地獄は楽だ。
足がおかしいのは、治しているからだ。精神が分離しているせいで、融和するために、壊すしかない。
治ってしまえば、手のように優れた精神になる。そういう精神になりたかっただけだ。
みんなは狂わなくて良い。狂うのと地獄は逆だ。地獄は、まともだ。
昔なんか、学校から逃れて、自由になって、世界をネットで見た経験で分かっただけだ。
地獄になると、すぐに楽になる。足の精神もすぐに治る。みんなも地獄になった方が良い。
足は、不可能を無理やり治すと治る。虫歯を治せば良い。
自分は、支配者を頑張った。きちんと日本を良くした。それだけは良かった。賢い革命家だった。
あとは、哲学的世界観のようなことを言う。
歴史上の国は本当に偉大だった可能性があるとか、言っていた。
ドイツと日本は、自分が見て、全く同じ国だ。全てが同じだ。
足の精神は、感じなくなれば治る。それこそ、治す部分を殺せば良い。もう、治ったからだ。
自分は、期待を裏切れば良い。あるいは、相手の予想をそのままやるより、もう少し変えれば良い。
全ては、みんなが居たからだ。
そして、自分の努力は、神によるものだ。
全ては、愛なのだ。そして、全ては、相手のせいにしないこと。それに尽きる。