「不思議だ」の日記

Assy(在導万創)のブログ。デザイナー見習いの作家です。小説と詩集と日記を書いています。

今日のこと - 2016-08-25

何だかんだ言って、今日も書いている。
NOVAと農園に行ってきた。
NOVAの教師の一人が、アメリカに帰るらしい。ビアホールでパーティをすると言う。
ただ、僕はおそらく参加しない。ビールを飲みたくない。
NOVAのフリー参加型の「ボイス」と言うレッスンではない会話の場でもパーティをすると言う。
それに参加したい。
昔は、人生経験とか、生きる知恵のようなことを書いていた。
分かることは言葉遣いと環境に作用されるとか、基盤的・環境的なことを書いていた。
経験的認識、環境への適応、人間と人間の関係、その中での哲学的事実のようなことを考える。
そういう、「基盤的前提」のような、哲学的な知、事実、発見、行動の変化を考えていた。
そういうことを、カントやウィトゲンシュタインのように考えていた。
数字を信じたのは、神との対話のようなものだ。
自分の思う何が正しくて間違っているのか、数字を見て分かっていた。
ただ、神との対話を最初からしたかったのだろう。
アランとドロシーが交互に話すのが辛いから、アランが沢山話して、その後にドロシーが話せば良い。
そんなに少しの内容で分かるのがおかしい。そのせいで、決めつけるようになっている。
もっと、「まだ分かっていない」と思った方が良い。
あとは、分からなくなった方が、賢くなる。そういう人間の方が分かる人間が多い。
言語的・数学的な意味を考えていた。
意味を考えて、例えば、農業関係の単語には「アグリ」をつけるとか、基盤には「システム」をつけるとか、そういう風に、単語的、意味的に日本語を改良するような、冠詞を多様にするとか、そういうことを考えていた。
aとtheだけではなく、本質的に知性を把握して分かるようにするとか、そういう発想が多かった。
心を把握していた。全てを支配出来る、神のような存在だった。それが、人間を導いていた。
あとは、意味や体験を環境から考えていた。意味を良く考えて、三段論法のように分かっていた。
そして、物理的な実験をして、推論から正しい考え方や経験的知性を分かっていた。
何から何が生まれるのか、そこではどんな条件があるのか、それを実地的に分かっていた。
社会、変化、自由、存在、愛、思いやり、平等、真実などを、経験的にネットから分かった。
経験から、全ての社会を知っていた。社会的問題のようなことを、解決方法から分かっていた。
躍動する感情から、善悪や楽しさのようなものを分かっていた。
「人間にとって何が本当に楽しいのか」などを分かった。心理学で言う、フロー現象のようだった。
そして、人間が何を否定し、軽蔑し、貶し、騙すのか、悪のようなことも、経験から正しく分かっていた。
人間は、一度自分で経験しなければ分からない。
人間の分かること、人間の理性は、全てが経験的である。
ただ、理性的な正しさはある。
数学や宇宙のような理性的正しさは、「正しい条件と成立が存在する」と言う意味で、経験的でない。
そういうわけで、人間の経験的では分からないことも、理性的に考えれば分かることがある。
そして、宇宙は相対的だ。宇宙には経験的なものは存在しない。
だが、地球における人間の活動も、それ以外の可能性が1つも無い、と言う意味で、宇宙的なのだ。
また、動物も経験的なところがある。そういうわけで、生物的な要素は、社会と同じように経験的だ。
ある意味、矛盾することを言っているようだが、「それもそうとは言えるが、逆も言える」と考えれば分かる。
昔は、実存主義のようなことを書いていた。人間の真理や事実を考えていた。
目をつむって、何もせず、音を聴いて、時を感じること。それで、自由になれる。
歯磨きは、一度、目をつむってすると、綺麗に磨ける。
神は居ない。居るのは、こういう馬鹿だ。そろそろ、幻想を解いた方が良い。
自分は、辛い方が良いのが分かっていない。辛い方が、楽なことが多い。
ただ、そうでもない。自分は、楽な方が良いのが分かっていない。わざわざ辛く分かるより、楽になれば良い。
そういう時は、逆になっている。辛いと楽が逆だ。
何も起きないで、辛いままが起きるのが、何も無い自由な楽になるのよりも、楽なのはおかしい。
もう精神は治った。あとは、今の精神を普通にすれば良い。
足を、そのままで変えれば良い。治るのは、もう治っている。
足は、精神分析をもう少し違うやり方でして、今までの分析を止めれば治るかもしれない。
良いのでも、悪いのでもなく、やり方が間違っている。
足は、自分を2人に分けるのが悪い。それは、むしろ、もっと沢山の分け方をすれば良い。それなら、血が治る。
精神の殺し方が間違っている。
世界の変え方が間違っている。
そういう風に、全部、やり方がおかしい。どういう風にやるべきかを考えた方が良い。
昔は、「もっと違うやり方でやれば良い」のを良く分かっていた。
足は、どちらかを殺すことが出来ないから、どちらも同時に殺せば良い。
一度、完全にバラバラにして、粉々にして、そこから、粘土のように精神を作っても良い。カタマリになっている。
要は、体の中の勢力バランスを変えたくない。
今に勝ってほしくはない。今は、悪い。だが、昔は古い。昔は良い人間だから、殺したくない。
全てをそのままで残したいから、何も死ななくなった。
ピンポイントで殺すなら、Linux共産主義を殺せば良い。そして、神とインターネットを殺せば良い。
ただ、そんなに、今と昔の均衡を図るのはおかしい。
昔の馬鹿だけ消すべきだ。今は、残した方が良い。
リオで思ったのは、オリンピックは、大したスポーツイベントで無くなっている。
招致なんか、しなくて良い。
意味が無いスポーツイベントが、オリンピックだ。
あとは、覚醒して、気付いていれば良い。自覚していると、すぐに意識が増える。意識を増やさないのがおかしい。
平和から自由が生まれるとか、そういう、社会の目的と因果性のようなことを言う。
足の精神は、もうきちんと治った。やり方が悪かっただけだ。良いとか悪いとかの前に、やり方が間違っている。