「不思議だ」の日記

Assy(在導万創)のブログ。デザイナー見習いの作家です。小説と詩集と日記を書いています。

2016-02-07

=2016-02-07=

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アドラー心理学を読んでいる。
アドラーのように、未熟な人間は、攻撃的になりやすい。だが、それは人間の本性と言うよりは、学校に意味が無いとか、社会に希望が無いとか、環境的な要因があると思う。
人間には、その人間から見て、行動に仕方ないところや、必然的な当たり前の行動をしているところがある。そこにも、環境的要因がある。
アドラーの言うように、目的には、意識されていないものもある。賢い人間は、そういう風に、「その人が意識している、意識していない」が分かる人間が多い。
アドラーは、劣等感を問題の主要な原因と捉えている。それも間違いではないが、自分の場合、責任感、孤立感、義務感などが、問題の原因だった。それも、悪くは無いと思う。昔の自分が試験の点数を取りたかったのも、不登校になったのも、そういう、自分が一番のままで居たい、と言う責任感や義務感があった。アドラーが言っている。だが、自分の場合、そもそも、そういう、一番、と言う考え方自体に意味が無いと思っていた。それで、成績ばかり重視する学校が嫌いになった。アドラーのように考えることにも意味はあるが、同時に、アドラーのようになること自体が嫌いな人間も多い。
アドラーが嫌いだからアドラーになる。そういう、負のスパイラルがある。劣等感から、劣等コンプレックスを持つ自分自身が嫌いになる。不登校には、そういう人間が多い。
認識を全て虫にすると、不思議と、賢い人間になる。分かるようになる。
この世界のことが、行動的、抽象的、実地的に分かるようになる。
全てのことに、環境的要因がある。
認識と心には、レベルと、階層的関係、依存的関係がある。
人間と自己が存在し、意識することから分かる。
いつも、そういう風に文章を書いていた。
社会とは、独立と意思決定の自由である。
決まりは、皆で良く考えて作り、創出するべきだ。そのために、現実を考えるべきだ。
そういう、パソコンで分かる基盤的な考え方を、いつも書いていた。
同じことをそんなに言う意味が無い。
環境と手段から、世界を相対的、可能性創出的に考えていた。
意志、作用、根拠、認識、意識から考えていた。
環境は変化する。ある社会は、他の社会に変わる。良く観察し、実験すると分かる。
プロセスと思考を照らし合わせて、辿って分かっていた。
心には、レベルと反応と作用がある。
感情で人間のことを分かっていた。
自由を積み重ねて分かった。行動、経験、感情、感覚、想像力を積み重ねて分かった。
認識を虫にすると、対象が生きるようになる。それで分かる。生きているものしか分からないから、そうなる。どんどんイモムシになる人間が、一番狂った人間に多いが、それは、それを治したいのが間違っている。それで分かるのが人間だ。
昔は、共に体験し、共に経験しながら、不安や恐怖を克服した。
自分の体験から、全てが分かっていた。
心を変えて、想定して考えていた。世界観が分かっていた。
場の精神とプラットフォームを考えていた。そういうものを、段階的に知っていた。
足がおかしいのは、文字を直すからだ。文字を直す部分だ。
生命は、不思議だ。
競争は悪い。安値競争になって、安かろう、悪かろうになる。
自分がセックスに見えるのは、一番悪いからだ。いつまでも、タリバンを続けるのが悪い。それしか出来ないのが、セックスに見える。いつも、悪い。
アドラー心理学は、知らなくても分かる人間が多い。普通、子供が真面目に人間と社会のことを考えると、アドラー心理学になる。あれの通りになる。昔の15歳の自分がそういう人間だった。自分で考えて、アドラーになった。
あとは、16歳、17歳の頃に、オープンソースをやっていた。それだけの人間が昔だ。
どんな社会からどんな社会になるか、のようなことを、環境の変化として考えていた。
環境から離れて、内側と外側を比較したり、無意識のうちに持っている目的や環境のようなことを考えたりしていた。そういう、心理学的な人間だった。
無意識の環境や目的は、本当に良く考えていた。人は、無意識のうちに、環境からの影響を受けている。そこから、哲学的な真理や、心理学的な問題の解決が考えられる。
内側と外側と言うよりは、主観的、客観的と言うのが正しい。環境は、主観的、客観的に考えられる。昔は、そこから、主観的、客観的に環境が発生し、変化出来ることを分かっていた。それぞれの構成員が何を考えているのかから、この社会の実存性を考えていた。
もっと、アドラーのように、人間の問題を具体的に考えれば分かる。
アドラーは、子供や未熟な人間からの、脱却を考えている。その上で、4つの基本理論や、共同体感覚を、心理学的、精神の発達的に考える。一番でありたい、と言う人間は、一番であれないなら、その夢や将来の目標を諦めてしまう。キモイとは言うが、賢い。
昔は、生命が環境の一部だと言っていた。そういう、地球や歴史のような内容が多かった。
心理学は、むしろ、しなくて良い。アドラーは、見ていると、キモイ。ああいう人間は、昔多かったが、最近居ない。最近、きちんと賢くなっているのが人間だ。
ユング心理学をしたいと思う。心理学をすると、色んなことが分かる。
それから、むしろ、本当に政治経済だけをやった方が良い。その方が良い。それで、きちんと池上彰のように日本のことが分かる。人間のことを知りたいなら歴史、世界のことを知りたいなら経済をやれ、と言う。自分は世界のことを知りたいだけだから、経済で良い。
理性のことを知りたいなら、哲学をやれば良い。むしろ、本当に、これでデカルトのように、理性的に考えることが多かった。何でも理性的に分析して、未知のことを良く分かっていた。それから、人生のことを知りたいなら、それも哲学をやれば良い。人生のことを考える、キルケゴールのような人間が、一番自分に多かった。
むしろ、理性なら数学、宇宙なら物理と言う。考え方なら心理学と言う人間が多い。不思議と、それは、誰も言っていない。今、自分で作った。
経済のことを知りたいなら、経済の本を買えば良いようで、買っても意味は無い。テレビや新聞を見て、自分の力で何かを考えれば良い。経済は、そういう、考える人間しか居ない。良く考えれば出来る。誰でも出来るのに、自分だけ出来ていない。
むしろ、ユング心理学なんか、普通、精神科医だ。心の病気を治す、治療者として、心理学を考える。あまりしない方が良い。これが精神科医になるのはおかしい。
ただ、ユング心理学を読んでいると、普通のことが良く分かる。そういう、普通のことをもっと知りたいなら、それは、心理学より、文学や哲学の方が良いだろう。
昔は、意識で分かっているのが多かった。最近は、意識で全部分かっている。何故か、それが、賢く見えて、キモイ。それが虫みたいにキモく見えるのが、この文章だ。
無意味に分かっても意味が無い。こんな風に分かる意味が無い。
最近は、そういう、人生と意識で分かっていたのが、大学の知識になった。それは、不思議と、狂っていない。まともな普通の学生に見える。人物を全部知っている。
自分は、経済なんか出来ない。心理学で分かるように見えて、今自分の読んでいるユング心理学の本が色んなことが書いてあるだけで、普通心理学では何も分からない。そういうわけで、色んな本を読んだ方が良い。本を読めば良い、が正しい。
もっと色んな本を読むこと。政治経済は、今読んでいる本が悪いから、しなくて良い。あの本は、高校の参考書だ。無味乾燥な、つまらない経済学の体系が書いてある。つまらないから読まなくて良い。むしろ、仏教の本が良かった。一番賢い、ブッダの言葉が全部書いてある。そういうわけで、仏教の本を読んでいると、さらに色んなことが分かる。
経験的な「意味づけ」から、人生は変わる。意味を見出すこと、そこに真理がある。
そういうことを知りたいなら、宗教と心理学が良い。ユング心理学仏教の本を読みたい。
目で見たことを信じてはならないと心理学の本に書いてあったが、自分の場合、視覚化は理解の助けにはなると思う。昔から、見えないものを見えるように変換して考える。
大切なものを守るために戦っていると、分かる。良い人間になると、狂うように見えて、賢くなる人間が多い。悪いのは、ヒトラーだ。ヒトラーみたいなものを悪いと思えば良い。
あとは、心理学は止めて良い。ユング心理学は、臨床心理学だ。人を治すだけだ。見ても、心の病気を治す方法しか書いていない。何か分かる自分がおかしいだけだ。
そういうわけで、自分は政治経済をやれば良い。それこそ、昔なんか、オープンソースしかしていない。人生のことなんか、読まなくても、考えれば分かる。経験から分かるためには、経済学が一番良い。社会経験を知ることで、色んなことが経済学から分かる。
ただ、すぐには経済学は出来ない。一度、全部忘れてしまった方が良い。
そういうわけで、今はユング心理学をすれば良い。コンプレックス、無意識、心像と象徴など、心にある精神的現象のことが書いてある。心の方法論も多い。見ていると、ユング心理学で誰でもきちんと分かる。それこそ、自分が心理学で分かるのは、おかしくは無い。
心理学は、人間のことをきちんと考える。精神分析をしていると、人生や人格のことが分かる。昔の自分も、そういう風に考えただけだ。
数学は、昔神ほどに出来ている。数学的な知性だけがあったのが、いつもの自分だ。
あとは、もっと長いスパンで考えれば良い。心理学の方からやりたいなら、今は心理学をいくらでもやっていれば、それで良い。もっと、何か月も何年も経ってから、経済学をすれば良い。今、経済学が出来ないのは、もっと違う経済学をやっているからだ。そういうわけで、今は、これで良い。数学も歴史も哲学も心理学も経済学も出来たのが自分だ。昔から、いつも出来ているはずだ。そういうものだ。経済学は、忘れた方が良い。
昔は、勉強だけではなく、自分の経験から分かっていた。それが賢かった。
勉強するだけではなく、人の意見を聞いたり、行動したり、しないのがおかしい。もっと、人生を変えるような、何かの体験やきっかけが無いのがおかしい。そういう行動をすれば良い。昔、そういう経験をして分かっていた。
それこそ、ネットでは悪い。ネット以外の部分で、「自分の心の中にある衝動や野心」のようなものを捉えて、それを実現したり、自覚したりすれば良い。そういう風にすると、心理学的に色んなことが分かる。心理学は、普通、そこを考える。
また、キルケゴールのように、絶望感から分かることが出来る。そういう、「思うこと」や「思念すること」から、「葛藤や欲望」が見えて来る。その中で、「人との関係の中における、社会的な実現性と共同性の自覚」が見えて来る。そういう風にすると、分かる。
あとは、「自分自身とはどんな存在なのか」を心理学的に考えられる。「自分とは、どんな中で生きている、何なのか」を考えられる。
「自分の中に眠っている、躍動的な感情」から、「自分が本当は何になりたいのか、どんな存在になりたいのか」や「自分は今どういう存在で、どこに向かっているのか」が見えて来る。そこから、人生の意味や社会の意味について考えられる。そういう発想が、アドラー心理学実存主義の哲学にも繋がって来ると思う。
自分と社会との関係から、未来の自分に対して色んなことが分かって来る。
自分は、そういう、「自分の今と未来」を考えないのがおかしい。
色々と、社会と関係していると、分かる人間が多い。
そういうわけで、経済学は悪い。経済学では、何も分からない。心理学の方が良い。
哲学は、そういう、「人生における自己の持つ、精神的な目的と自覚の現れ」が分かる人間が多い。ヘーゲルの精神の成長や、ハイデガーの実存的哲学からそういうものが分かる。
それこそ、ハイデガーのように、人間を未知と可能性を知る存在だと思えば良い。
あとは、むしろ、哲学も心理学もあまりに2ちゃんねるだ。昔の自分に見える。もっと、経済学のように、まともな正しい学問をした方が良い。
昔なんか、2ちゃんねるの体験をいくらでもして、そういうヘーゲルのような哲学を分かっただけだ。ハイデガーも同じだ。心理学なんか、しなくて良い。2ちゃんねるなんか、分からない方が良い。何も賢くない。狂っているだけの引き篭もりだ。
猫の夢を見た。夢の中では、猫は元気にしていた。
最近、小説のような、大冒険のような夢を、毎日見る。現実に何も無いのに比べて、夢ではいくらでも色んなことがある。美味しい料理が見えることもある。だが、夢はキモイ。キモイ虫のようなものが多い。それに、怖く死んで終わる夢が多い。パソコンの夢も見る。Linuxのようなことを、夢でまだやっている。文章を書くのが夢になることもある。だが、特に多い夢は、学校の夢だ。小中学校や、剣道部が見える。
昔から、意識の変転と段階が分かる。それは、昔の経験を分かっているように見えて、ここらへんの未来を分かっている。昔から、未来のことが分かっているのが自分だ。
あとは、最近、王になって、自由に世界を導いていた。意識で分かっていた。
その王のおかげで、皆が賢くなった。もっと賢くした方が良い。
ただ、もう、王はやりたくない。もっと楽になって、普通の勉強がしたい。
自分には、経済学は出来ない。経済学も、昔出来ている。世界のことを実地的に考えて、本質的に分かっていた。そういう人間が出来る。社会の具体例が分からないと、出来ない。
昔は、本当に具体的な社会が分かっていた。未来学者のように分かっていた。経済学は、もっとオープンソースのようなことをやれば出来る。もう、自分には出来ない。
そうでもないだろう。頑張れば出来るのが分かっていない。それは、頑張るわけがない。高校の参考書なのが悪いのだと思う。高校の教科書は、頑張って覚える本だから、頑張らないと出来ない。出来るわけがない。
むしろ、心理学はこれで終わりだ。ロックとヒュームも読まなかった。読むわけがない。あまり読まなくて良い。心理学も昔出来ていることにすれば良い。昔のような、賢い理性的な方法が分かる人間なら、心理学や経済学なんか、誰でも出来る。自分は、もっと基本的な、数学や国語のところからやった方が良い。その方がきちんと賢くなる。
昔は、世界を変えたかった。特に、子供のことを救いたかった。それだけの馬鹿だから、それを考えれば分かる。事前の考え方を全部作って、子供的な信念と欲求を考えて、延長線上のことを分かっていた。最近がおかしい。人間だけを全部変えるのは、おかしい。
昔は、人間が何を知るのか、何を作るべきなのか、どのようにしてそれはそうなるのか、のようなことを考えていた。何を知れば何が分かるのか、を良く考えていた。
そろそろ、終わりだ。今日も、もう寝る時間だ。
集団と個人を考えていた。一人で集団を支配していた。
自分に出来ることは、皆にも出来る。皆に出来ることは、自分にも出来る。自分がそれを確かに出来ると、信じること。分かる、出来ると確信すること。
あとは、自由を考えていた。意志を尊重する、自由な経験と努力を想定する、社会を自由に変える、支配者が干渉しない、自由に変えられるモデルにする、選択肢を増やす、参加や手段や独立性を高める、などの自由が多かった。
機会から人間の知を考えていた。知が、いかなる状況で、いかなる形態を持っているか、考えていた。知の可能性と知性を考えていた。
基礎を作りながら、全部の科学を自分で分かっていた。デリダ脱構築のような人間だったようで、脱構築と言うよりは、再構築や、可能性の事前な構築、のような人間だった。
僕は、デリダのことを良く知らないから、何かおかしなことを言っているかもしれない。
あとは、言語分析のような内容が多かった。ネットで、いかなる状況で、いかなる場面から言語的なやりとりがされるのかを考えて、言語の場面と経験のように分かっていた。あらゆる経験的な場面を、事前に自分の中で作っていた。
自分の中に、ヒュームのような心と経験の構造を作っていた。
社会のことを、考え方から全部作っていた。目的と説明から分かった。社会を考え方で分かる人間だった。考え方と同時に、実地的な実際の社会経験と社会像を考えていた。人間が、その社会の中で、根源的に何を感じるか、何から何を思って、どう変えられるのか、などを分かっていた。具体的な社会の経験と場面が分かっていた。思考や行動の因果性が現実世界の社会と環境から分かっていた。場面と経験が分かる人間だった。
社会的な精神と意識が分かっていた。何からどんな社会が生まれるのかを分かった。どんな心から、どんな社会が生まれるのかを分かっていた。目的と意志と考え方から社会形成を分かっていた。人間のことを機会と可能性から考えていた。
価値観とは、そういうことを言っていた。社会形成と経験から価値観を分かって、そこから自然な社会の可能性を分かった。同時に、全員の信念を融和して考えていた。
文章にも、そういう、「価値観と心による社会形成と自然な可能性」が多かった。
もっと、人間を考えること。人間は、本質、考え方、世界観、信念から分かっていた。2ちゃんねるの体験から、人間が何を知ることで何が分かるのか、何を原因としていつ何を思うのか、のようなことを考えていた。
もっと、未知や可能性を考えれば良い。ロックのように、知性から未知の問題を考えた。
あとは、知性と説明のような文章が多かった。日本語は曖昧な言語だから、「猫が自分が好きだ」などと言う文章になる。対称性が確かでないと言える。そういう風に、「対象性」のような、知性ある説明のようなことを言う。五線譜はオクターブだと言っていた。
昔は、ネットの友人が多かった。色んな人間といくらでも付き合って、出会って分かっていた。最近は、神しか友人が居ない。神は、そういう理由でまだ対話している。
社会のことを価値観と自然形成から考えて、場のことを自然な意識と歴史から考えていた。
組織をグループから作っていた。
あとは、デカルトのように、正しい考え方で分かっていた。それくらいの人間だった。
自然な意識を、宇宙的な根源的感情で分かっていた。
環境の変化を人生の経験から分かった。そういう、狂った人間だった。
それぞれの意志を尊重すれば良い。そこを考えれば分かる。それぞれの意志を尊重するとは、どういうことか。環境を作り出して、知をそれぞれに与えて、手段を与え、手助けを与え、自覚を与える。そういう風に、憲法のように自由な命題から推論すると、分かる。
知性があるとはどういうことなのか、生きているとはどういうことなのか、自覚があるとは何を意味しているのか、それが何故必要なのか、などを考えれば良い。
そういう風に、知性から意味を考えていると、昔が出来る。そういう風に考えていると、論理的に命題の持つ意味が分かって来る。それで、自由、自然、実際、可能性が分かる。
カントのような、仮象の世界が分かる。論理学とは、そういう、自由な意味の数学だ。
あとは、社会のことを考えれば良い。社会の制度は、その制度が関係する構成員の手で変えられるようにすべきだし、自由な労働条件は、統一して、平等に決められるべきだ。
もっと、「何が何を意味しているか」から考えれば良い。数学的な命題を良く考える。
それで、キリストのように、たとえ話から本質が分かって来る。カントのような、仮象の世界も分かる。昔は、そういう風に考えて分かった。世界と論理を良く考えただけだ。
もっと、人生や人間のことを考えれば良い。
逆に、「現実がそうあることから、どのような数学的命題や意味が言えるか」のようなことも分かる。説明から相対的な意味を考えられる。それも、実験し、考えれば分かる。
昔は、人より沢山の経験をして分かっていた。
正しく認識、経緯、問題を考えて、正しく分かっていた。
適当にネットで分かった。人格、認識、環境、心、経験のことを、ネットで分かった。
昔は、認識を良く考えていた。
思い込みとフィルターから、皆が何を見ているのか、知っているのか、分かっていた。
そろそろ終わりだ。今日はもう夜遅くになった。もう、寝た方が良い。
あとは、環境の解決のようなことを全部していた。