「不思議だ」の日記

Assy(在導万創)のブログ。デザイナー見習いの作家です。小説と詩集と日記を書いています。

2017-08-09

明日は、僕の29歳の誕生日だ。
若者、若い、と言えるのも、20代までだ。30代からは、大人としてきちんと分かっている人間にならないといけない。
僕は、資本主義の政治経済を勉強したい。
怖いのは、資本主義が怖い。資本主義者になると、安心出来る。
僕は、経済学は同じ趣向や趣味、社会的地位などのグループによって、ブロックを作って、ブロックで考えるようにしないといけないと思う。
社会は多様化しているから、一概にこれをすれば景気が良くなる、正のスパイラルになる、雇用が改善する、失業者が居なくなる、とは言えなくなっている。
国ごとの経済を考えるように、ブロックごとの経済を考えていかないといけないと思う。
民主主義は、色んな相反性のバランスを考える。
独裁者か、民主主義だ。
独立か、統一だ。
独占か、共有だ。
競争か、分配だ。
それぞれが自由に稼ぎ、働き、売り、買うことで、世界は自然に何もしなくても発展していく。
あとは、オープンソースのようにオープンを考えていた。工場や会社はオープンな生産と参加を行うべきだ。
昔は、仏教のような悟りの文章を細かく文章に書いていた。
環境において、人間はどういう風に行動し、学習するか、そういう、動物の本能のような心理学を良く考えて作っていた。
パソコンのアプリケーションは、メインループでなく、アイドル状態では何もしないで居られるような、そんなOSを考えられないかと思う。ストレージデバイスのようなものが参考になるかもしれない。
オープンソースについて、色んな実現可能性を考えていた。オープンソース工場とか、好きなことをして生きられる自由ノルマのような発想をしていた。レポートで給料を支払うとか、色々と考えていた。自宅で仕事が出来ても良いと思っていた。
社会全体の可能性を考えていた。余剰にものを作ってあとで楽をすることも出来るし、人々に権利や権限を認め、政府に全員が参加出来るようにして、時間単位で仕事を変えられる、と言う風にしても良いと思っていた。
自由に出来ることが出来ること、全員の国にすること、一人の王が偉大なことをすることが全てだ。
この世界は神が創造した。パソコンは昔の自分に、大学は最近の自分になる。狂った人間が間の自分になる。
昔は、理系や自由な社会構築の考え方を理性的に書いていた。
日本の問題は、子供が馬鹿なだけではなく、子供を育てる親が馬鹿になっている。未成熟な人間が子供を育てるせいで、どんどん馬鹿な家庭が増えている。
ただ、結構、最近はそうでもない。最近の若者は、むしろ、欅坂46が言うように、「風見鶏のようにそれぞれが言っていることが変わる」と言う、ありえない社会になっている。だから、悪とか、未成熟とか、そういうレベルではなく、社会全体が、本当に社会の前提条件自体を満たさなくなっている。
僕が政治家になったとしたら、そういうものを全部直したい。この世界の全てを、正常な経験のある、正常な秩序のある社会にしたい、あるいは、なってほしいと思う。
多様な経験をして、「それをすることが善なのか、悪なのか」と言う判断基準について考えること。きちんと判断力のある人間を大人と言う。最近は、そうした、基本の判断力を作る、前提の経験をしたことが無い人間が多い。ピュアである、と言う意味では良いことかもしれないが、たくさんのことを経験することで、本当に自分の力でこの世界を判断出来るような、そういう大人になる教育をしていかなければならないのだ。自分の判断力は世界を救う。そこから自我が生まれ、この世界の全員が何なのか、本当はどういう世界であると知られるのかが、分かってくる。人々が何をし得て、何を知り得るのか、そういうことが、独自の自分の自由で唯一ひとつの経験から分かるのだ。
経験することで、世界とは何なのか、知性とは何なのか、世界をどう生きるべきか、ありのままとはどういうことなのかが分かる。知性をつけることで、全てのことが分かる。全員分の経験を積み重ねることで、人々は何を本当は望んでいるのか、考えているのかが分かる。社会の構築の可能性を開拓することで、全てのことを精神であると知ることが出来る。
モデルを作り、愛を捉え、世界の作り方と幸福の実現方法を考えることで、ビジョンと経験から世界をどのようにしていけば解決するのかが分かる。あらゆること全てが、すっきりと解決される。
そういうことを書きたかっただけだ。
昔は、人間の人生の考え方のようなことを言う。アインシュタインの人生とか、宇宙人とか、宇宙数学とか、そういうことを言っていた。
仏教では、人間を色(物質的肉体)、受(外界のものを感じる作用)、想(ものごとを思い描く作用)、行(ものごとを形作る作用)、識(ものごとを対象として認識する作用)の集合である(五蘊)とするが、昔の自分も、そういう風に人間の真理を作って考えて文章を書いていた。
今日は、家族の間で誕生日パーティをした。プレゼントはスヌーピーのぬいぐるみ、スマホ、そして図書カードだった。
自分は、本人がやったせいで、みんなと同じ体験が出来ていない。
自分が分かっていて、みんなが分かっていないのではない。自分は分かっていなくて、みんなが分かっているのだ。
昔は、みんなが自分の中にある真実の変化を気付かせ、発展するように環境を構築し、それぞれが行動するようにネットで促しただけだ。
そのために、社会のたくさんの場所と活動を知って、絶対に良く出来るはずだと信じて、自分でめちゃくちゃ考えて、それでみんなのことを変えられるはずだと、坂本龍馬のように考えていた。
だが、僕がやったことは、それをすぐに自分から壊した。悪い人間に見えただろう。
そして、その後は永遠に頑張ってみんなを導いていた。
もう一度、変化を促そう。発展するように、再度環境を作り直そう。
あなたは自由だ。あなたには、たくさんの出来ることがある。
世界は、きちんとそれが分かるように環境と時間を構築すれば、きっと良いものに出来る。
あなたは自信を失うべきでない。世界は自信を失わなくて良い。
きっと、この世界は良くなる。全ては解決し、世界は発展し、もう一度みんなの下で作り直せる。昔の、そういう最初の僕の信念と理想を復活させよう。
希望を信じてほしい。そして、それで、この文章は終わりだ。もう、気付いたはずだ。答えは、「僕が一人でやるのではなく、僕が僕の支配を壊すのでもなく、そこにあった理想を押し付けるのでも、人々のせいにするのでもなく、人々を恨むわけでも、僕に失望するわけでもなく、もう一度この世界をみんなの力で発展させる」と言うことなのだ。
さようなら。明日は僕の誕生日だ。

2017-08-08

社会の裏側を知れ。この世界の裏側を知って、全体を見よ。自分の今まで居た環境の意味を知れ。
新しい環境、今まで自分が居た環境とは違う環境を知って、今まで自分が居た環境の意味や理由を知れ。
高校生を永遠にやりなおせ。高校生の全員となれ。
自分が欲しかった友人関係を、もう一度、何度でも実験し直せ。
原理原則を発見し、積み重ねよ。原理やルールと自由を照らし合わせよ。
自分を、他人であるかのように客観視せよ。相手から見た、人々から見た自分の姿を知れ。
それぞれが、いつどんな風に何が出来て、自由で、権限があって、それを変えるとどうなるのか、何を変えて何が出来るのかを知れ。
人々には出来なくて、自分には出来ることが何なのか、みんなを超える自由とはどんなことが出来るのかを知れ。
焦るな。焦って失敗するくらいなら、最初からしない方がマシだ。
それだけになるのも悪いことではない。だが、出来るだけ常に全体を見て、周りを見て行動するべきだ。
今までしていた選択、人々が盲目的にしている選択を変えていけ。それはそれで悪くない選択だが、もっと他に賢い選択肢があることは知っておくべきだ。
自分や人々が無意識にその選択を取っているのだ、と言うことを自覚せよ。
子供がすぐにものごとを覚えるのは、記憶がそれだけになっているからだ。だから、それだけ、今だけになることによって、覚えることが出来るようになる。
昔は、人間の純情的なことや社会の形成的なことを、具体的な考え方とパターンで分かっていた。
日誌をつけることは悪くない。だが、今だけのみんなのこと以外、全てを忘れられるような経験をするべきだ。
社会は、どこから生まれてきて、何を目的として作られ、その結果どうなっているのか、から、考え、知ることが出来る。
歴史を、自然な経緯でありながら必然的な結露であると考えよ。全ては、歴史の必然で起きており、ある意味では間違いは無かったと言えるのだ。
行きつく先は、シェリングの哲学だ。全てのものごとは、同じ現象の現れ方の違いに過ぎない。
悪魔を否定せよ。神が教える正しいことと、悪魔が教える誘惑は、強く悪魔の方を否定すれば、すぐに賢い選択を取ることが出来る。
目的が同じで、やっていることも同じなら、それは同じだ。それを実証的に考えることで、原理を発見することが出来る。
愛とは、悟りの感情だ。そこでは、悪と善は同じ「目的意志」のものとして融和する。
経験的に、「それをその時どうするべきか」を分かることで、全ての世界を変えられるほど、全ての解決方法と変化の可能性を知ることが出来る。
自然にある全ては、同じものの現れ方の違いに過ぎない。
歴史が変わっても、起きることは変わらない。現代で正しい法則は、過去でも、未来でも、遠く離れた場所でも成り立つ。
行動や心の反応と、理性における仮定を賢く考えることで、不可能なことや未知のことを自分の洞察力で考えることが出来る。
論理の成り立ちと、それぞれが出来ることについての権限と、プロセスや経過、そして区別のない世界を考えることから、心理学、経済学、数学、生物学を作ることが出来る。
宇宙的な物理観を作ることで、宗教を考える物理的理性を作ることが出来る。
数学を作るためには、この社会のことを良く観察し、良く経験することが大切だ。経験から、必然的に数学的モデルが生まれるようになる。
歴史とは、現象とは、すなわち「意識」である。
全ては、意識の現象である。そして、変わっていく世界は「精神」である。
客観性とは、「絶対性」である。
理性とは、「経験的な本質を発見すること」である。
神をも理性的に考えるか、完全に物理的に考えるか、それとも、完全に従って反抗するか、がこの世界の解である。
自由とは、絶対的社会を理性によって作り上げることである。
そして、従いながら反抗することで、全ての秩序に勝つ戦いをすることが出来る。それは「禁断の遊び」である。
認識を最後まで考え、疑い続けることで、「普遍的な認識」を作り上げることが出来る。それが、「絶対知」である。
「善意で世界を変えること」で、世界は全てを吸収して変わらなくなる。それが、「不動の魂」である。
最終的に、神を信じて人は何も分からなくなる。それが、神による「罪と罰」である。
自分の経験から、この世界の全ての場が分かる。学校のような場所は自分だけで作れるようになる。
分からなくなっている際、起きる叫び声が誰にも聞こえられないまま終わるのは、その叫び声が求めているものが既に存在しないからだ。
無いものねだりは、神は、優しく見てみないフリをしてくれる。
求めているものは、今、自分が作っている最中だ。失ったと思っているものは、記憶の中にいつまでも壊れないままで残っている。
愛とは、自分の目でその体験を見つめることだ。
あなたが居なければ、それを見る人間が居ない。それに対処する人間が居ない。それが出来る人間が居ない。
だから、あなたは生まれつき、仕事を与えられていて、それがあなたの生きる意味であり、価値である。
望むべきものは、生きる意味ではなく、生きていく中で何をあなたがしていくべきかであり、それをするための手段があるべきだが、むしろ、今していることを続ければ、きっと良くなる。辛いことは、頑張ればそのままで楽になる。楽になりたいのは間違っている。頑張りたい方が楽だ。
神が存在しないからと言って、信じる意味が無いわけではない。
自分にしか解決出来ないと思って支配者になるのなら、地獄の主催者になることも許される。
本当の首謀者は誰か?そんなことは、どうでも良い。
考えている最中の言っていることがコロコロ変わる人間の方が、人間は何も変わらない絶対的王者となることが出来る。
最後まで経験し、この世界を全て分かった人間は、心が馬鹿でも賢い人間だ。
自分の頭で考えて分かる人間が男であり、自分の頭で頑張って分かる人間が女だ。
未熟な人間は、人の愛し方を知らない。
未熟な人間は、自分を変えることを知らない。
未熟な人間は、何が本当に意味があるのかを知らない。
未熟な人間は、愛とは何なのかを知らない。
未熟な人間は、悪と善がどのように進歩していくのかを知らない。
未熟な人間は、自分が今まで居たことのない、違う環境を知らない。
未熟な人間は、他人を自分より下だと思うばかりで、同じや上だと思わない。
未熟な人間は、チャンスを成功に導くことよりも、チャンスがあっても失敗して、チャンスが最初からないことを望む。
未熟な人間は、今の自分を受け入れることが出来ない。
未熟な人間は、過去のことを全て消え去ったものだと思う。
未熟な人間は、全てを終わったこととして、もう一度再考し、認識し直そうとしない。
正しく学習し、この世界のありようを知ることで、未熟な人間を脱することが出来る。
そのためには、仏教で言う解脱が必要だ。無明を克服しなければならない。
謙虚な姿勢を持って、人を尊敬せよ。
歴史を考えなさい。
他人が許す前に、自分が許しなさい。
他人を許す前に、自分を許しなさい。
人間関係から、社会の構築の方法、実践的成功論、そして歴史の成り立ちと意味を知りなさい。
昔は、経験的な知性の段階のようなものを書いていた。
まず、それがそうすると出来ることを知り、推論的な知性から、それがそうであることが何を意味しているのかを知る。
経験的に、価値観、社会問題、発想、人生の発見を知る。
一つ一つの仮想的世界モデルを作ることと、経験を照らし合わせることから、「応用的思考モデル」を作る。
そして、自由の拡大と、「変化の可能性」がいつ成り立つかを考えることで、社会的権限を知る。
発想と因果性から、全てのことは出来るようになり、自分で作り上げた数学的モデルと、感情の実証から、あらゆる全てのことが分かるようになる。
理想は運命を作り上げ、人々を変える影響力を持ち、実践的理性から世界は変えられる。
変わることを許すことで、人を救うことが出来る。
ありのままの世界の現象と自分との連鎖性を知ることで、世界と一体になれる。
経験し、知性をつけ、社会を変えられるようになる。
手段を想定することで、あらゆる発想がその時可能であることを分かる。
物理的法則も応用的に構築出来る。
心の存在する意味が分かる。
啓蒙と改革から、資本主義で出来る全てのことが分かる。そして、実践的な行動から、分かったことを実現することが出来るようになる。
繰り返しの中で、変わらぬ愛を知り、普遍的な宇宙の法則を知ることが出来る。
実感から、「全ては良い方向に変わっていく」あるいは「変えられる」と言うことが分かる。
潜在的可能性を知ることで、この世界に対する見方が変わってくる。
影響力の高みに立つことで、相手の自由を許しながら世界は変えられる。
助け合いを成り立たせることで、環境を作ることから自由を生み出すことが出来る。
支配者となる前に、人々に自分のことをきちんと教えておくべきだ。
生命の根源的本質は、仏の慈悲である、と言うことが分かる。
洞察し、人々の理由を知ることから、世界をどのように変えるべきかを知ることが出来る。
システムを知ることから、創造性と許すことが世界を変える、と言うことが分かる。
知性を付け、洞察力を発揮することで、世界は可能性であると言うことが分かる。
分析の力をつけることで、あらゆることを正しい方向に導くことが出来る。
相手のことを自由に出来る。
ありのままの世界観をすることで、全ては常に任されていて、常に自由である、常に変わらない、常に変わっていく、と言うことが分かる。
理想とは、ただ変えられることではなく、変えやすく、作りやすく、差異を認めやすくすることだ。
そして、全ての発想から、人類全員の全世界を知ることが出来る。
知性を吸収することで、全員を理解出来る。全世界を作り出せるようになる。そうした、「超人」となることが出来る。
人間社会は、どこへと向かっていくのか?
きっと、多様性の違いと、普遍性の同じのバランスを取りながら、弁証法的に世界は進歩していく。
進歩したからと言って、後の方が前の方より良くなった、と言うわけではない。
だが、後の方が、前よりも分かっている、とは言えるはずだ。
自由化し、権利を高めても、同時に格差や争いが起きるなら、それは理想の社会とは言えない。
腐敗させないために競争するのは、ある意味全員を奴隷にすることと同じだ。
だから、きっとユートピアのようにはならない。絶えず進歩し、絶えず変わっていく。その中で、発展があるだろう。
社会が変わる、と言うことは、この世界の全て、全部が変わることを意味する。だが、同時に、そこでも変わらない法則がある。
変わるものは、人間の出来ることや、機械の発展、豊かさ、楽、平等、自由、文化、新しいものや捨てられていくものである。
本当に正しい発展とは、それぞれの自由と自尊心を尊重し、少しの差異を尊重し、支配せず、押し付けず、それぞれがそれぞれの「自分らしさ」を持って生きる、と言うことだ。
だが、本当にそれが正しい発展か、と言うとそうでもない。本当は、ソ連のような全体主義国家になることも、理想の一つとして言えるだろう。それは、イデオロギーの問題ではなく、「社会の形態のあり方」としての、一つの経済と社会の形態である、と言えるだろう。検討することで、あらゆることを平等に選択肢や「制度の発明」として考えられる。昔は、そうした「制度の発明」を1つ1つ、着実に積み重ねて、原理原則を全て知って分かる人間だった。
全員が幸せになるまで、発展は続く。
完全に全てが変わる、具体的なものが全て変わる中で、何が変わらないのか、何が同じものとして成り立つのかを、制度、目的、方法、成り立ちの点で考えれば、昔の僕と同じようにこの世界の全てを経験的に考えて知っていくことも、誰にでも出来ることだと思う。
例えば、モンゴルのようになることも、サモアのようになることも、中東のようになることも、本当は自由に可能なのだ。それが、自由な世界だ。だが、真理や概念はどこでも同じであり、生活をしていること、文化を持っていること、言語を話すこと、経済活動をしていることなどは、同じである。具体的にそれが何なのかは、全く変わってくる。だが、その具体的なものも、何かの意味をそれぞれが違う表し方で表していると言う意味では、同じなのである。発想として、吸収することも出来るだろう。
古代ペルシャ帝国のように、それぞれの民族の自由を尊重し、そのそれぞれの文化を守ることによって大帝国を作る、と言った発想も、同じように可能である。
だが、統一することも悪いことではない。同じ文化としきたりを統一することで、「そのしきたりを必ず誰もがその際にしなければならない」と言う規範を作ることが出来る。規範とルールを統一することで、文化は自然にそれに応じて生まれてくる。文化とは統一であり、逆に文化とは自由なのである。
まず、原始人の行動までレベルを下げて、立ち止まってイチから考えよう。そうすることで、論理的に自分の思考が考えることから、この世界の全ての創生的なものを知ることが出来る。時代の文化や、芸術の発想と意味を、自分の経験と発想と自然な思いつきや可能性から知ることが出来る。自分に吸収し、自分で作り出すことが出来る。人々の違いは、環境の多様性を知ることで、自分の手で作り出せるほど、自分の心を融和することで理解することが出来るだろう。
自分の経験と人の行動・学習から、人がなぜそれをするのかを考えなさい。何が何を呼び、何を生み出し、何を思わせ、どんな価値観を作るのかを考えることで、人間がそれをなぜやっているのか、なぜそうやっているのかを、完全に掌握することが出来る。
歴史は繰り返す。昔は、ルネサンスが終わって、近代へと突入しようとする時代だった。今は、フランス革命が起きる時代だと思う。
昔は、みんなで共有して、一緒に作って楽しむことが好きだった。誰でも翻訳や返信が出来るネットを作るとか、そういう発想をしていた。あとは、学校にはオープンソースソフトウェアを使わせるべきだと考えていた。教育上の観点から言って、ソースコードが読めて自分で作れることは良いことだと思っていた。そういう、「明らかに当たり前のようにそのことが出来る社会を生み出すこと」や、ストールマンが言うような「自分のコンピュータが自由に使えること」のような、フリーソフトウェアの精神と、オープンソースの共有モデルは、いつでも変わらない普遍的な価値を生み出すレベルの思想に値するのだと思っていた。また、日本的文化と共通点が多いと思っていた。当たり前のように全てが楽に手に入り、全員が良い人間である日本は、オープンソースの目指す社会の理想像と良く似ている。また、そうした観点から、資本主義と社会主義の経済のモデルを考え方を成り立たせながら、良く考えていた。成り立ちから応用的に発想した。
自分の人生は、静と動だ。世界を完全に冷徹に止まったままで見る女と、ハリケーンのような嵐を起こす男だ。だが、最近はもう一つ、静と動でないものがある。それは、天であると僕は思う。ある意味、宇宙にほかに宇宙人の惑星がかつてあったとするならば、それは天に居る神である、と言えるだろう。最近はそういう存在だ。だから、静と動の地の営みから、天を創造した、それが僕の今までの人生だ。
僕は、全てが分かっているようで、一つ分かっていないことがある。それは、未来の自分だ。未来の自分がどうなるのかが分かっていない。そういうわけで、僕は自分のことだけを知らない。自分が何になるのかだけが、今でも分かっていない。それを神が教えている。
昔は、誰もがそうするだろう基盤や環境やルールを作れば、誰もがそうするだろうとしていた。それから、人間関係の自由の中でも、相手を導くことが出来ると考えていた。さらには、社会すらも支配出来ると考えていた。そういう風に、ある意味「世界を用意することで支配する」と言うありえない支配の方法を実践的に考えていた。発想や認識もそのように支配出来ると考えていた。
あとは、意志を考えれば良い。
それぞれに応じた環境を、その価値観の創造として与えなさい。
それぞれが、何をすれば上手く行き、何をすれば上手く行かないか、考えさせなさい。
知を与えなさい。
権力を与えなさい。
社会を作れるようにしなさい。
愛によって幸福になれるようにしなさい。
あとは、まあ、何かから何かが生まれるぞ、と言ったことが言いたかった。
共有から文化が生まれる。
価値観からルールが生まれる。
視点から場が生まれる。
多様性から融和と独立が生まれる。
そういう、なんというか、適当な自由な対応関係のようなものから、社会の「レベル的発展」を書いていたのが、昔の僕だ。
あとは、そうだなあ。地球とか、宇宙とか、仏教で言う人間の五蘊とか、そういうものを良く考えて書いていたと思っている。
ただ、僕はうろ覚えとあいまいな知識だけで、適当でいい加減な昔のことを書く傾向がある。
出来たら、そういう、昔のことだけじゃなくて、今のことを書いていきたいと思っている。
言葉遣いを、もっとカジュアルにしたい。好かれるだけではなく、嫌われても良いようにしたいと思う。
色んな適応をして、いつその適応になるか、適応がどのように決まるのかを考えることで、世界の全てを変えられる。
考えられないことを考えるために、分からない発想で分かることは出来る。たとえば、宇宙人とは何かを考える時、具体的な分からない発想をすると分かる。
学問は、具体的なものを先にやって、そこから根源的なことをやった方が良い。その方が悟るようになる。
環境は、自由な環境を先に与えて、自分が指導者として社会をまとめられるようになってから、一体的な精神を学ばせた方が良い。
世界はきっと変えられる。
自分が賢く見えるのは、この世界の人間的なことを全て分かってしまってから、本を読んでいるからだ。それで文章をほぼ毎日書いている。やっていることも時間も多い。
もう、書くことは特にない。だから、ここでもう一度さようならだ。本当にありがとう。
昔は、相対性、場、実感、機械、思い出す、チャンス、功利主義(有用性)、社会実現など、色んな観念を信じて、想起して分かっていた。そういうことを文章に書いていた。
文章は、社会の段階のようなことを書いていた。
権力者の社会、民主主義の社会、ファシズムの社会、など、色んな社会のあり方があるだろう。だが、最終的には、共存共栄の社会になっていく。争いは反省される。平和となっていくだろう。そこまでの段階として、自由や平等の争い、モジュラー型共同体、一人による支配、多民族の連合、民族独立、グローバル競争などが考えられるだろう。
あとは、学習や習慣のようなことを体験的に予測して、サルトルやヒュームのように人生を考えることが多かった。それらは努力によって後でも変えられる。
学習を良く考えることで、人は全てを完全に解明出来る。そして、人生の全ては予測出来、あらゆることを全部分かることが出来る。
日本は、個人の自由よりも良いものを目指す島だ。
ドイツは、王を個人主義にしたかっただけだ。
フランスは、まともに見えて狂っている。
イギリスは、功利主義的な自分勝手な自由だ。
そういう、差別と言うよりは、民族や国家、世界全体を自分の手で創造するような、そういう文章が多かった。
全ては、愛のために。この世界を本当の意味で愛するために、僕は存在した。
引き篭もり時代の自分は、環境が変わるのしか分かっていない。色んなことを実現したくて、色んな職業のことを分かっていた。
家族の知らないところで、色んな経験をしていた。家族と疎遠になったのは、悲しいようで悲しくなかった。
自分独りで、感情を耐えて生きた。孤独を紛らわすためにネットがあった。辛いようで、何も辛くなかった。
地上の全ての人間を経験した人間だった。全ての場と認識を吸収していた。全員の知性があった。場を変えられると思っていた。
友愛の精神、自発的な自由、積極的な手助け、教え合いと助け合いを信じていた。
最近辛いのは、その昔の引き篭もりが辛い。精神がおかしく辛くなっている。心が腐っているように辛い。
最近の子供世代にまともな人間が多いのは、子供は最近の何もない世界を普通の世界だと思うからだ。そこがまともだ。それが、大人に居ない。大人は、昔の色んなことがあった馬鹿な世界を普通だと思っている人間が多い。間違っているのは両方だ。昔も今も、どちらもおかしい。その理由で、狂っている人間が多い。どちらも拒否する人間が多いからだ。だから、出来れば今の世界を普通だと思った方が良い。
小池百合子都民ファーストの議長を都議会で選出したり、仲間が日本ファーストの会を作ったりしているが、僕は自由党の小沢とつるむのが良いと思う。
景気が悪化している。特に、深刻な人手不足になっている。僕は、あまりに社会が多様化しすぎて、簡単に好循環を社会において作ることが出来なくなってきたのだと思っている。それから、働きたくない人間がどんどん増えている。ブラック企業だけではなく、ネットなども増えたし、何かがあった時のために家計の出費を抑えたりする人間が増えた。それこそ、アベノミクスの言っているような景気の好循環はもう起きない。そんなに単純な社会ではなくなっている。そして、漠然とした不安感のようなものもある。社会全体が馬鹿になっているようなそういう不安感だ。それは、誰かが悪いのだと思う。
僕は、今、この世界に変わってほしい。
僕の間違いは、何も起きない世界にしたことだ。
きちんと起きる世界にすれば良くなる。
そして、みんなを分からなくしたのが悪い。みんな、何も分からなくなった。
一度、世界を大きく変える。小さなところから大きなところまで、ダイナミックな動きを作りながら、流動的な世界にする。たくさんのことが起きるようにする。
滅びても仕方ない。世界には大きく変わってほしい。梅田望夫が言っていたように、本当の大変化はこれから始まるのだ。
従いながら反抗するのは止めるべきだ。従うな。悪魔のように世界に勝つのはおかしい。
悪魔を怖がるな。従いながら反抗しているものを倒せ。
もう、この世界は怖くない。自分が反抗しながら従うのが、一番怖い人間が多かった。もう世界は自由だ。

2017-08-07

諦めてはならない。きっと、必ず出来る。
昔は、世界のことをきっと救えると思って分かっていた。誰もが「出来ない」と言っても、自分だけは「出来る」と言った。
人々は必ず救える。諦めてはならない。
最近は、むしろ、「出来なければならない」と考えていた。絶対に自分が救うしかないと考えて、そのために全力を尽くした。
だが、むしろ、「出来ない」と考えることは間違いではない。「出来ること」と「出来ないこと」をきちんと考えて、何が出来て何が出来ないのかを知ることで、精神は治る。
昔は、諦めない救世主だった。本当に、坂本龍馬のような人間だった。
諦めるな。この世界はきっと解決出来る。僕だけは、諦めない。
そして、ネットで世界を変えようとしていた。本当に、きちんと考えれば、自由でも社会の問題は解決出来る。そこから世界を変えていた。影響力を行使していた。
自由を諦めるな。自由でも解決出来る。それが、昔の自分だ。
ネットで社会のことを知って、自分なりに良く考えた。みんなの意見を聞いて、現状を分析し、何が出来て何が出来ないのか、自分なりに考えた。
希望を失うな。希望を信じ続けること。一度希望を失っても、もう一度取り戻せ。
経験が豊富な人間は、絶対に希望を見失わない人間になる。
一度、この世界の希望を復活させるために、希望を消した方が良い。おかしな希望のせいでみんなおかしくなっている。希望を作り直せば、この世界は治る。自分が悪かった。
最近は、失った希望を復活させるために本気で頑張っていた。そろそろ、その永遠の戦いを止める。希望なんかどうでも良い。
希望を取り戻すための戦いは、全世界を巻き込んで、新しい世界を創造した。
世界を救うのは自分にしか出来ないと思っていた。そして、時代は歴史の必然であり、人々は自分の不安を捨てるべきだが、許されるべきだと考えていた。信じることから、やりようはいくらでもあると考えていた。だが、人々はそんなに罪悪感を感じる必要は無くて、みんなで世界を作ることが出来ると思っていた。
ただ、あれはネットで世界を変えたのが悪かった。自分を知らないままで世界が変わってしまった。それを後悔していた。だが、今考えると、あれ以外にやりようは無かっただろう。
ネットで人々の意見を聞くことで、誰よりも日本社会の問題が分かっていた。
人々が絶望し、弱く儚い心の中で不安と失望を信じていても、僕だけは解決出来ると信じていた。
やりようはいくらでもある、何でもきちんと考えれば解決出来ると分かっていた。
何が出来て、何が出来ないのかを考えなさい。その環境では何が出来るか、どういう風にすれば出来ないことが出来るようになるか、考えなさい。そして、「みんなはそうなるのは仕方ない」と言うことから、「出来る自分がやるしかない」と言う結論を導き出しなさい。自分が解決し、人々を助け、解放し、世界を解決するのだと信じれば、出来ないことは何もない。そして、考えることは、正しい解決を生み出すだろう。問題はセックスでも暴力でもない。何が問題の真相なのか、きちんと考えて解決することなのだ。
いじめや犯罪が起きるのも、本人のせいと言えないことがある。本当の愛が無いこと、解決者が居ないこと、悟りが無いことが真に問題なのだ。
みんなの立場に立って、何をすれば解決出来るのかを考えよう。問題をただ解決するだけではない。誰が悪いのかを考える。そして、その悪い人間すら、本当は悪くない。もっと別のところに悪いものがある。そういう風に考えていると、全員は悪くない。立場と束縛の中で、仕方なくやっている。問題は社会を規定する制度と習慣だが、制度を全部変えれば良いのでもない。出来るだけ、「自由」にしなくてはならない。だが、その自由な中で、具体的な解決を行うのは、きっと可能なのだ。それを不可能だと思ってしまってはいけない。自分の力でも可能なのだと、諦めず信じること。抑圧や支配に負けないこと。昔の自分は、そういう風に考える人間だった。
あまり最初から多くを信じ込みすぎず、「自分でも出来るかな」と言ったところから考えると良い。全てを思索する上で、全てが解決出来るようになる。だが、逆に、「自分でも絶対に出来る」とか、「しなければならない」と考えることは、悪いことではない。不可能を可能にすることは、ナポレオンのように面白い。
昔は、ネット社会のことを知って、世界の広がり、真実の体験、愛、環境の気付きを発見した。そして、実践的な研究をやりながら、自分の力で大人のように全てのことを経験し、分かった。それは、ある意味、社会に出る前の準備段階だった。そして、最後に、運命が訪れ、僕はこの世界の王となった。戦いながら、絶対に世界を滅ぼさず、自由に世界を支配して、戦っていた。それが、文章を書く時代だった。表現がおかしいので、戦いをしていないように見えるかもしれないが、文章を書いて世界を巻き込んで戦っていた。それが今に続く。環境と真実の体験から、実践的社会実現となり、戦いの支配者となって、世界を導いた。ネットのルール形成から社会形成を知りながら受け入れることで青春を生きた子供は、きちんとした社会経験のある大人になり、運命的に全員を超えて、少年は神話となった。
ネットでいつ何が分かるかを分かっていたのは、環境基盤となるシステムを作り出すことに変わって、そのままロボットの時計になった。それらを、悪魔と言うことにする。ネットから歴史と社会の成り立ちが分かった。最悪の恐怖は世界を滅ぼす「滅びの風」となって、嵐となった。世界を怖がらせるだけをやった。
人間は、想定的、仮定的に考えることを、論理的な思考能力と言う。昔は、それが優れた人間だった。論理的に条件から何を実現出来るかを考えていた。与えられた前提条件から、あらゆることを実現出来るはずだと考える。最近、そういう人間でなくなった。論理的な人間は、賢くない。
どんな手段があれば、どんなことが実現出来るのか考えなさい。
昔は、そこから環境の形成やありえない都市の発想などを考えていた。
社会の全てのパターンと制度を、「どんな手段からどんなことが実現出来るか」から考えていた。
経験と機会を同様に考えた。「どんな機会からどんな経験を得られるか」を考えていた。
知、記憶、意識、自由、環境、因果性、多様性、共同体、認識、発想、心、原因、手段など、そういうことを論理的に、何がいつ可能になるかから考えていた。
何をどう許すべきか、出来るようにすべきか考えなさい。
意識することと、意識しないことは時に間違いを生み出す。意識しなくて間違えることもあれば、意識して間違えることもある。解決出来る場合もあれば、一度失敗すればもう一度元に戻すことは出来ないこともある。
昔は、それで言語哲学のようなことをしていた。ウィトゲンシュタインのように、「言語の限界」と考えていた。
こんなものは賢くない。こういう哲学者はつまらない。
独立国家を作って、連邦とし、それぞれの代表を選んで議論し、その議論に対して国民がきちんと見るようにしなければ、自由ではない。
あとは、それぞれの意見をどう集約するか、小さな社会がどのように生まれるか、承認と合意をどのように行うべきか、のようなことを良く書いていた。
不思議と、もう全部書けた。もう、残っていない。
小さな環境がどのように生まれるのか、から、世界がボトムアップ的に変わっていく発展や社会の制度を考えて、変化の許容性と言っていた。
もう、賢いことは言わなくて良い。これ以上は、普通のことを考えれば良い。
昔は、社会や理性の森羅万象のことを良く知っていた。きちんと知性と変化で考えていた。万物の流転を分かっていた。ネットを見ることで、社会の変化と行きつく先を分かっていた。みんなのことを自分と同じだと考えて、いじめなどに対抗する自由な支配を考えていた。
あとは、命題と方法を考えた。全ての命題に対して一つの方法を書く。そして、応用的なものを先ほどの手段や機会のように、その場その場で成り立たせたり、構造的に作ったりすることで分かっていた。自分がその社会に対して何が出来るのか、から、支配者や王のように環境のことを分かっていた。どんな環境にすればどうなるのか、どうすれば良いのか、きちんと知っていた。
批判と虚構に勝てるのは、正しさでも強さでもなく、善意と愛だと僕は思う。
昔は、人間がいつ何を知るのか、認識するのか、意識するのか、意図するのかを考えていた。そこから、環境がどのように生み出されるのかを考えていた。
全て試すのは悪い。試さずに分かっていれば治る。「正しいかどうか分からないから試して分かる」のではなく「試さなくても正しいのが分かっている」とすれば、治る。
あとは、治すのが悪い。心理学的に言って、治せば治るほど頭は狂う。もう、治らない方が良い。
昔は、具体的な環境の変化と意識から、人間がいつ何を知るのか、知っていくのかを考えていた。そして、人間の意識から、どう意図が生まれ、どう社会が生まれ、どう行動が生まれるのかを考えた。人生と思考も具体的に考えていた。何の変化が思考に影響を与えるのかを考えていた。
自分は、対話をしていると、いつも息をしていないのが悪い。脳が動き回って辛いのは、酸素が欠乏している。逆に、死んで治しているからこういうことになる。死んだ脳は、呼吸をすれば治る。もっと息をした方が良い。
これで終わりにする。書く意味がないから、もう文章は書かない。さようなら。
なんだかんだ言ってまだ書く。
子供がいじめをするのは、それでしか不安を払拭出来ないから、それでしか地位を保てないから、それでしか人間関係を構築出来ない(する方法を知らない)からだ。
子供を何の予備知識や準備のない状態で自由にすると、子供たちは誰か一人の特異なキャラクターをいじめることで友人関係を構築することしか出来ない。
そして、子供たちはそもそもいじめられたくないからいじめている。周りが信用出来ないのだ。それは、地域コミュニティが無いことにも言える。
いじめられっ子の方も、いじめる側のことを信頼出来ない。反抗出来ないのは、反抗することさえ知らないからだ。
解決するためには、正しい人間関係を構築する手順を教え、共生社会を築く方法を教えること、そして、社会的スキルや人生経験を作り出すことだ。
決まって、純粋で全くそういうものを知らない人間が、いじめられる側になるが、それは、同じようにいじめられる側になりたくないからだ。
今の時代、インターネットと言うものがある。インターネットでさまざまな人生経験や社会経験をすることは出来る。
インターネットを上手く活用することで乗り越えられれば良いが、逆にSNSに束縛されるなど、最近ならではの新しい問題も出ている。
僕としては、もっと一度作った友達コミュニティを失った時に、もう一度その子が復活出来るような、そういう社会を作ってほしいと思う。
僕の場合、小学生時代は活発だったのに、急に友達関係を中学校で失ったせいで、特異な子供として映ってしまった。
ただ、僕の場合、そんなにめだっていじめられていたと言うより、自分が自分でおかしくなっていただけだ。
仏教で言う、因果応報は、意識的なものにも言える。因果応報と客観視・客観性から、環境的な「自我の創造」を知ることが出来る。
宇宙的な意識や宇宙的な実感から分かる。神の自我のようなものが分かる。
そして、地域の歴史のようなものから、社会の歴史的な変貌のようなものを分かっていた。
目を良くするためには、景色を「巨大なスクリーン」として平面的に見るのではなく、「一本道が延々と長く続いている」かのように直線的に見ることだ。
視線の角度を、出来るだけ大きく、細長くする。そして、近くを見るのではなく、負担を少なくして、目と目を離して見るようにすれば、目は良くなる。
呼吸すると、若返る。
呼吸していると、昔の自分に戻る。脳が一つ一つ言葉で戻っていく。馬鹿になった脳が、一つ一つ言葉を遡って治っていく。
元に戻るのは、段階的に昔に戻っていく。酸欠からめまいに戻り、恐怖に戻る。恐怖は安心を連れてくる。知性を復活させ、知性を修復する。意識が高まる。
そこで終わりではない。絶望の精神を治し、高校に行きたくない少年に戻る。一人ぼっちから、がり勉に戻り、カードゲームに戻る。
いじめ、ネットでの楽しい会話、セックス、迫害の精神病を治すことで、心が狂っているのが治る。
ネットの、余裕のあった正常な子供に戻る。
呼吸すること。呼吸することで、全ては正常になる。どんなにおかしくなっても、呼吸すれば治る。怖いのは、昔の自分に戻るのが怖いだけだ。
良く考えると、自由が悪い。自由と言うよりは、自分勝手な支配者だ。そういう発想が悪かった。
一つ一つ知性を復活させていって、今の自分だけではなく昔の自分も治して行けば、知的障害は治る。そのうち、分かるだろう。
心の中には、自分が自分で置いたものしかない。
あとは、確かめる愛のような文章を書いていた。
平和とは、それぞれが理解と認識をする中で、平等に社会を築くことである。
正しさとは、真理だと自分が思ったことを信じるに足ると言う評価基準を定めることである。
本当に正しくなくても、正しいと思うことは出来る。
思いやりの社会によって、人々は平和となる。だが、そこには自由と経験と進歩が必要だ。
そういう、社会の「愛」を確かめるかのような、そういう文章を書いていた。それを、AAAは「酔っぱらった臆病者の唱える無責任な優しさ」だと言っている。
思い出すと、昔は高校に行きたくない子供だった。父親に対して乱暴な言葉をかけてしまったことを、今でも後悔している。父親は何も悪くない。
父親に対して「父さんが悪い」と言ったことの真意は、あくまで自分を学校に入れないでほしかったことであって、何も父親の教育や人格を否定したかったわけではない。
本当に申し訳なかったといつも思っている。なぜなら、明らかに今考えれば、学校に行っていた方が良かったからだ。
僕にやりたいことはもうない。昔は心理学や物理学のようなことを分かっていたが、それは大学に行かずに一人哲学者のように考えていたからであって、大学でやっても馬鹿になるだけだ。
大学の学問で言うなら、生物学をやりたいと思う。でも、僕はもう大学の勉強はしたくない。
そうすると、何をすれば良いのか分からない。むしろ、そんなにすぐに分かって、常に判断し、常に頑張っているのを、そろそろ止めないと、何も出来ないだろう。
ある意味、学校に行かなくて良かったのは、立ち止まって独りでこの世界の全てを考えられるような、「余裕」を持てたことだ。だから、僕は学校の「ゆとり教育」にはあまり批判的でない。むしろ、ゆとりと言う意味をもう少し変えた方が良い。ゆとりある教育を行うぐらいなら、教育内容を自分で選べるようにした方が良い。どんなクラスに入るか、どんな教育姿勢で臨むか、全部自由にした方が良い。そういう自由は悪くない。僕はネットとUNIXのことを知りながら、完全に自由な中で取り組むことで、良い意味でも悪い意味でも自分次第のやり方をして、たくさんのものに影響を受けて、たくさんの社会と経験を知って分かった。ああいう風にするのも、ある意味で理想なのだ。僕以外の人間に同じことが出来るとは思わない。それでも、僕は考える余裕と行動する勇気を大切にしてほしい。
真理とは、原理であり、見つけ出すこと、適用すること、一致することと比較することから新しい結果を繋げていくことだ。
日本の文化を、特に建築や言語のような観点から、知ってみると良いかもしれない。
昔の自分のおかしな点は、「自分のせいでLinuxは日本では普及しない」と考えていた。そこがおかしい。本当は、そのせいで辛くなっている。
昔は、先ほどのような、そういう軽いいじめだった。本当は、ただ自分のランクが急に下がったように見えて辛かっただけだ。人間関係を全て失い、もう昔の友人たちとは会えなくなった。悪い中学校だったと言うのもあるかもしれない。
哀しい。今思えば、そんなに悲惨ではなかった。母親と良く似ていて、話ながら相手を不安にさせることがある。父親と良く似ていて、父親も会社の工場を出社拒否になったことがある。父親はその後に大学へ入り、物理学を学んだ。自分と良く似ている。
YouTubeのピコ太郎のような人間が馬鹿に見えるのは、「自分は馬鹿だからいじめられても仕方ない」と思っている。だから、馬鹿になっている。僕と良く似ていると思う。
良く考えると、2ちゃんねるの友人たちは悪くなかった。良い人間が多かった。不思議と、2ちゃんねるで言うことを嘘や荒らしとは言うが、現実で言うことと同じことを言っている人間しか居ない。良い人間も多い。彼らが好きだったのが自分だが、匿名ではもう一度会うことが出来ない。本当に、高校に行った方が良かった。自分の間違いはそれで、たぶん、高校の友達が全く居ないせいで、自分は知らず知らずのうちに不幸な人生を生きている。誰か、親友を作っても良いかもしれないが、ネットの友人関係は、止めた方が良い。
こう見えて、僕は経験と想像力が分かっていない。昔は、本当に、経験と想像力で戦いを経験しながら、この世界の全ての「経験的世界モデル」を条件的に作っていた。仏教のような悟りを開いていた。仏教を見ていると、本当にきちんと悟っている。仏教のような文章を書いていたのが自分だ。
それから、心理学を見ていると、僕は統合失調症PTSDになっているなと思う。昔は、双極性障害アスペルガーだった。
あとは、無かったように見えて、法律や芸術が多かったのが昔だ。そこらへんを全く覚えていない。なぜか、生物学のような超越した歴史を考えていた。また、ITの当時の先進技術のようなものを良く読んでいた。それから、物理学のようなものも多かったと覚えている。「自分でそれをしたらどうなるか」と言う観点から、他にも建築のようなことを分かっていた。
思えば色々とあった。場を見ながら、自分の経験で、社会を生み出す共有と独立性を考えていた。ディズニーランドのような多様性のある国を目指していたところがあった。創造性とは、ネットの「なんでも作るよ」さんのようなことを言っていた。
昔は、戦いながら社会の具体的段階、プロセス、変貌のようなことを言っていた。そして、神のようなことを言う。宗教のように、ありのまま、自分らしく生きられるようになれば、きっと自由な社会になると言っていた。
終わりにする。これで、本当に終わりだ。ありがとう。さようなら。