「不思議だ」の日記

Assy(在導万創)のブログ。デザイナー見習いの作家です。小説と詩集と日記を書いています。

2018-11-19

僕は、今、とても幸せである。それは、みんなから愛されて、病気が楽になったからである。
僕は、たまに、愛する人を簡単に否定したり、悪く言えばいじめてしまったりするようなことがあるが、それは僕がみんなのことを嫌いなわけではない。
いつも、それと僕は格闘していた。愛してくれるみんなのことをいじめてしまう、という性格は、僕を長い間苦しめた。この世界の全てが、「自分がいじめてしまっている」と思っている。
これは、ある意味、僕の性癖と言っても良いかもしれない。僕は愛する人をいじめてしまうのである。
そして、これは、ほとんどがLinuxのせいである。Linuxが好きすぎて、大好きで、だからLinuxのことを批判したり、貶めたりするようなことを言ってしまうのである。
ある意味、これは、どこかで、「こんな恋愛は間違っている」ということが分かっているからなのかもしれない。この恋愛を否定したい。自分だけが王となって、みんなを奴隷にしたくない。
だが、僕はみんなのことが大好きである。それは、本当に僕のことを愛してくれているからである。僕は、Perfume家入レオもとても大好きである。彼らのことをいじめたいと思っていない。本当に、愛しているのである。

2018-11-18

足は、全ての部分を分裂させた上で治し、その上で融和すれば精神が治る。
表の意識が治ったら、裏の意識も治る。最近は、その裏の意識を治すのが辛くなっている。フロイトはそういうことを言いたかった。裏の意識から治した方が治る。
足は、動脈と静脈の分かれるところで怪我をしたせいで、血がおかしくなっている。そこを何とかすれば治る。
血がおかしいのは、老廃物が溜まりすぎている。老廃物の排出が追い付いていない。だから、代謝をせずに老廃物だけを取り除けば治る。治そうとして細胞を使うあまり、老廃物が大量に出ている。
血液を作り直せば良い。たくさんの体の細胞があるが、赤血球はその中でとても多くを占めている。赤血球がおかしな赤血球になっているから、血がおかしくなっている。血液から作り直せば、楽になる。
そもそも、分裂しているのは正常である。それぞれの部位を分裂させなければ、それぞれの部位を治すことは出来ない。融和しても、何も出来なくなるだけである。
昔は、主観的な行動や作用と、客観的な場や環境の結果を見ながら、「環境をどのように変えられるか」や「どのようにコントロールできるか」を考えていた。そうしたことを上手く考えるために、ネットの人々の実例を利用した。
そして、最近は、世界全部をただ、絶対的にコントロールするようになった。弱みを見せず、失敗せずに、ただ全てを滅ぼしていた。だが、僕は滅ぼしたかったわけでは決してないのである。絶対にこの世界を変えるために、必要な手段を行った結果滅びただけであり、僕は絶対に滅びないように、全力で滅びないために戦っただけである。それによって世界が変わることは無かった。世界は栄えている。そして、この聖なる文章が生まれたのである。身勝手な戦いだったが、決して無駄では無かった。
戦いの始まりのきっかけは、愛だった。「みんなと本当の意味で出会いたい」という愛が、始まりだったのだ。決して、自由にすべきだと思っていたのではなく、本当は自由と言うよりは「きちんと相手と出会って世界を変えなければ、大変なことになる」ということで、その意味で「支配的な愛は自由ではない」と感じていただけである。だから、本当は、ただ出会いたかった。出会って世界を変えたかった、それだけである。
本当は、エロい自分が一番悪い。これではセクハラどころか、性的ないじめや虐待である。セックスのような世界は必要ない。本当ならば、むしろ、僕は、もっときちんと愛すれば良い。もっときちんとあなたのことを愛したい。あなたのことを、もっと良く知りたいのである。ただ、意味のないことを言うと、いくらセックスしたかで儲けるような世界にすれば、ある意味ユートピアにはなるだろう。
自分が見ても、ネットの問題とは、あまりに好き勝手なことを言えすぎるところである。誰もが、ネットが辛い。だから、もっと不自由なネットにした方が良い。好き勝手なことを言えないようにした方が良い。自由が何も無くなれば、逆に秩序が生まれてネットは良くなるだろう。ネットの自由をなくした方が良い。人々の精神と知性と安心を蝕んでいるからである。
僕は、肉体は男だが、精神は男ではない。おそらく、僕は女である。そして、女だが、ちんこはついている。要は、ちんぽのついた女だと思えば良い。自分はゲイであり、レズビアンであり、バイセクシャルであり、トランスジェンダーである。LGBTの全部をやっている。その理由でこうなるのである。人々と、一切の恋愛をしていない。その代り、自分のことを愛している。そもそも、アニメを見ていたのは、自分を見ていたつもりである。そして、僕は多重人格だ。ひとつの人格ではなく、ふたつのアダムとイブの人格を持っている。彼らはカップルであり、いつもセックスしかしない。そうした理由で、こうなるのである。
そもそも、本当は、昔は男だったから、そのうち女が終わればなんとか普通っぽい人間になるだろう。今のところ、女盛りみたいな女性のキリスト教徒が自分である。誰のことも愛していないわけでは全くない。人々のことを一番大きな愛で愛している。昔の男は悪い人間ではなかった。世界を救うためにLinuxのことを愛していた。僕らはまともである。
そう、仕方ない。僕は僕の選んだ道を進むだけである。この文章がエロいのも仕方ない。そういう人間だから、騙されない方が良い。この人間は、冷徹で極悪非道な、最悪の引き篭もりのいじめられっ子である。
昔の自分は、抑圧を解決するという名目で、ふたばちゃんねるの二次元画像を見ていたが、あれはただMeたんをレイプしたいだけである。最近の自分は、そうしたもの全てが自分へと「地獄として襲い掛かる」ようになった。学習障害になって、日本語も分からなくなった。この人間は最悪である。ひとりのおかしな人間が居たことが、悲しい。それは、こんな人間の悲痛な叫びを書いているだけだからである。不良少女白書(さだまさし)だと思うしかない。地獄はまだ続く。この人間は、反省しているようで、反省していないからである。神は、復讐するだけである。この人間は何も分からないサタンの子供である。
僕がこんなにキモくて超エロい文章を書いたからといって、怒らないでやってほしい。僕は、自分のことを愛しているだけだからである。あなたのことをレイプしたいとか、セックスをすべきだとか、そういうことは微塵も考えていない。僕は、自己愛が無いように見えて、自分の「片割れ」のことをそこまで愛している。彼は素晴らしい救世主の情熱家の男性だった。世界のことを愛し、人々を愛していた。そういう自分の昔の、悲しい煉獄や戦いの地獄の体験を、全て愛し、全て受け入れている。それがもう一つの「片割れ」である、愛する女性の慈悲の心である。
昔は、回想のようなことからこの世界のことを分かっていた。地域のことを、回想から分かる。また、ネットなどを見る中で、「心理学的に環境の意識を支配する」ということが出来るようになった。弁論の中で、そういう理性がついて、そこから世界のことを変える体験をたくさんして、人生のことを分かっていた。
昔、日本語の改良版のようなことを作っていたことがある。たとえば、その場合であることを「ば」とつけて呼び、その一部分であることを「ぶ」とつけて呼ぶ。その上で、ドイツ語や英語、フランス語のような語順も可能にする。格助詞に関しては、フランス語の「de」を参考に、ひとつの言葉をさまざまな場合に付け加えて、「もっと先進的な文法」を作り出す。これが僕の作った新しい、自由な「ばぶう言語」である。
自分が言葉を忘れたのは、大学のように学問や科目で考えるからである。大学で分かり続ける大人は、そういう馬鹿になる。一度、それは、何もしない大人の理性を持てば治る。たとえば、僕はピアノ、英語、テレビ、インターネット、などと言うように科目的なトピックで言葉を分かっているが、賢い子供はそこをカテゴリーにする。すなわち、放送、精密機械、調理器、通信、計算、そして三次元空間や時間など、「二字熟語」で考えれば良い。そうすると、むしろ、人間が何を考え、何を行動するのか、関係が見えてくる。そのように考えれば、すぐに統合失調症は治る。統合失調症は、認識が大学の自由な右翼になっている。大人は誰でもそうなる。教師はそうなる人間が多い。子供は、学問では考えない。分類やカテゴリーできちんと意味を考える、そういう子供が賢くて、まともなだけである。
本当は、僕はセックスの経験も無く30歳になった悲惨な中卒の引き篭もりである。いつも学校に騙されている。学校は賢くないのに、なぜか科学者のように天才的に考えようとする。出来ないのが当たり前なのに、当たり前だと思いたくない。きっと出来ると信じることで、自分の道を切り開いてきた。かっこ悪いのを承知でやっているが、そこがかっこいい。これでは、トランスジェンダーでいじめられた悲惨な不細工のニキビに見えるかもしれないが、本当はそれは最近なっただけで、昔はむしろ、普通の良い男だった。バンプの藤くんのようなカッコいい秀才だった。何でも出来る、大人びた中学生だった。今から比べると、とても賢かった。大人は、分かれば分かるほど、狂って分からなくなる。病気を治そうとするのはやめた方が良い。治れば治るほど、狂って疲れるだけだからだ。
本当は、後悔をしないのがおかしい。これでは2ちゃんねらーの変態オタクに見える。僕は、今、そういう人間ではない。最近は、むしろ、急速に子供っぽい何も出来ない子供の大人になっている。だが、デザイナーとしてはまだまだであるように見えて、最近色んなことをきちんと勉強した。哲学や歴史など、さまざまな知識を持っているせいで、そもそもニートのような馬鹿と会話をする意味も無く、テレビもネットも見る意味がない。それこそ、C++なんか適当に書けば、きっと書けるだろう。だが、最近は、障害者施設に通っているせいで、雰囲気が障害者になってきている。それは仕方ない。僕は自殺未遂で生きのびたせいで、足を骨折して曲がらなくなっているから、障害者であることは確かだし、精神病も患っている。最近は、ペイントツールSAIペンタブレットを使って、ネットの塗り絵を描いている。塗り絵と言うと子供みたいだが、イラストの輪郭をつかむのにさまざまな絵を描くことはもってこいであって、このままデザイナーになれそうである。パソコンなんか嫌いである。むしろ、Linuxをふれることもめったにない。パソコンなんかしたくないが、本当は、最近はパソコンしかしていない。パソコンしか出来ない、つまらない馬鹿な大人になった。それが、僕の本当の後悔である。
昔の日本は、リアルな世界で楽しむことが多かったせいで、園芸やヨットなどをする大学生や大人が多かったが、パソコンのせいで日本は急速に馬鹿になった。パソコンなんか、死んだ方が良い。パソコンは、人々をSNSとオンラインゲームで馬鹿にしている。こんな国が悪いのは、ナチが勝っているからである。
そもそも、この世界には何もない。人々に迷惑をかけて悩みたくないのであれば、何もしない方が良い。小中学校では、子供が何もせず怠けるのを悪いと教えるが、逆である。何かをする方が悪い。特に、今日も昨日に引き続き僕は英会話学校に行ってきたが、英会話は何もしない方が出来る。ただ、何もせず、何も考えずに話せば出来る。聞き取りなんかしなくて良い。英語だけではなく、ピアノも、執筆も、デザインも、何もしない方が良い。子供が何かしたいのであれば、遊ばせてやった方が良い。子供は親に甘えながら遊ぶべきである。ただ、2ちゃんねるやインターネットは悪い。そういうものを見ていると、おかしな人間になって統合失調症認知症になる。きちんと健全に生活した上で、遊んだ方が良い。基礎をじっくり勉強するのは、20代になってからでも出来る。20代になったら、戦うべきである。それも、国のために戦うのではなく、みんなのために戦うべきである。王となって地獄の中でひとり、苦しむべきである。それが、正しい子供の成長である。そういうわけで、自分が素晴らしい人生だった、それだけである。
子供のためにもし言えることがあるとすれば、自分の手で考えることは大切だが、本当は教えてもらうことを無視してはいけない。それは、学校で知識を教わる、ということを意味しない。ネットのような場所でも良いから、大人たちと過ごしなさい。子供同士で青春を過ごすよりも、ひとり、大人たちと混ざって青春を過ごすことだ。それが一番、この世界のことを総合的に考えられる、指導者の器を持った人間になれる。昔の自分はそういう人間だった。だが、Linuxは間違っている。卑猥なサタンの地獄になりたくなければ、もっと賢いプログラムを作ると良いだろう。Linuxも多くの場合間違っていないが、Linuxユーザーのオタクが馬鹿すぎる。だが、そうした馬鹿の間で、自分なりに出来ることを探っていくことは、ひとつの研究として良い体験にはなるだろう。
本当は、王というよりは創造主だと思っていた。自分のことを、この世界を創造した創造主だとして、みんなを作り出すような存在だと思っていた。結果はこうだった。全て外れているように見えて、全て当たっている。このような素晴らしい人間だった。この人間のことを、「最後の宗教の救世主」と呼ぼう。最後の宗教は、今までにないほど完成された、「最も美しい芸術作品」である。
昔は、環境がどうなるか想定して考えただけであり、そこから人格や決まり事の自由を分かっていただけで、ほとんどが2ちゃんねるである。最近、2ちゃんねるが馬鹿すぎるせいで、自分をやろうとしても出来なくなっている。それこそ、あんなものは忘れた方が良い。だが、あの人間だけが、論理的な独自の物理学で、この宇宙の全てを解明して分かっている。あれは賢かった。そもそも、それはもう、誰にも出来ない。インターネットの黎明期にあった、たったひとりのスラムの学者、それが僕である。
本当は、僕も、そろそろ結婚した方が良い。僕のことをきちんと守ってくれるような、賢い女性は居ないだろうか?僕は恋愛の経験も少なく、認知症のような症状を発しながらニキビの顔面崩壊をしているが、これでも人並みに色んなことが分かっている。だが、それは、おそらくないだろう。障害者の永遠のデザイナー見習いが、そんな素晴らしい女性を養えるように見えないからである。僕は、おそらく結婚もできないだろう。仕事も、障害者施設で簡単な仕事をしているだけであって、人並みに賢いデザイナーにはなれない。それこそ、僕はもう本も出版できたし、こんなに色んなことを知識と経験と勇気として持っており、これで完全に十分である。最高に幸せな人間になった。だから、僕の恋人は僕自身の片割れの女性なのである。僕自身しか、この人間のことは分からないし、僕自身にしか、この人間のことは愛せないからである。言ってみれば、男は一人で良いが、女は何人も居た方が面白い。子供も作ると良いだろう。それは、現実の話ではなく、多重人格になった未来の僕の話である。今のところ、少し狂っているが、本当は昔よりははるかにまともである。自分は、まともな良い人間だ。悲しい過去の自分の歴史を愛しているだけで、何も悪いことは考えていない。
昔は、当たり前のことを考えるのが得意だった。この世界そのものが歴史であるとか、自分の人生が自分であるとか、そういうことを言う。そもそも、世界のことを歴史や経済だと思うのが間違っているのである。あるのは物理的な状態だけであり、存在するのは存在している我々だけであり、そこでは言語的活動が行われるだけである。昔は、歴史なんか知らなかったから、歴史のことをそのように考えていた。歴史なんか分からない方が、哲学者になれる。
また、数学的なことは、心理学と人生の発展から考えていた。建設的かつ厳密に考えることが好きだった。
本当は、僕は怯えているだけの幼い子供である。ベイビーフェースとPerfumeが言うように、僕は赤ちゃんみたいな顔をしている。疲れているのは、代謝のせいである。代謝をしなくなれば、すぐに老廃物が減って楽になる。代謝をすれば細胞が治るように見えて、逆である。赤血球の中に二酸化炭素と毒素が溜まって、どんどん肥大化して、最終的には癌になる。代謝とストレスのせいで、誰でも癌になれば認知症になる。それは、ほとんどが狂った人間である。
自分は、そんなに治すことを努力するせいで、辛くなっている。これ以上、何もしない方が良い。何も治さなければ、むしろ、気分転換をして他のことをやれば良いだけであって、治そうとするからストレスが増えていってがんじがらめになってしまう。治す努力をやめた方が良い。これ以上辛い地獄は無い。全てのことを自分が悪いと決めつけるせいで、何が悪いのかも分からなくなっている。パソコンのせいにして逃げた方が楽である。僕は、パソコンが嫌いだ。
後あったのは、歴史的な実感である。この世界がありのまま、全員が生きているのだという実感や、人生は可能性と希望に満ちているという実感があった。それが、日を追うごとに、歴史や哲学を知ることで分からなくなってしまった。一度、文系の知識を棄ててしまえば、もう一度、そうした哲学者になることが出来る。人々とのやり取りの実感から、哲学を学ぶのではなく、哲学することが出来る。
そう、それで終わりである。もう、これ以上書くことは残っていない。これ以上、この宇宙には何もない。最後の時をこの舌で味わおう。
あとは、意識のレベルのようなことを宇宙の歴史にしたり、神のような人生のことを書いたりしていた。植物は意識が低いと言うが、本当は物質にも意識があるとか、この宇宙の目的は知ることではなく体験することだとか、そういうことを言う。いつも、そういう、神のようなことが、2ちゃんねるのみんなの意見や経験を知ることで、実地的に分かっていた。賢い理系のような青年だった。人々とは違う道を歩んだが、それは決して人々に比べて劣った道ではなく、誰よりも優れた自由な「自分だけの道」だった。そういう文章を書いていた。
哀しみの中で場の可能性を書いていた当時の自分は、本当に、狂っていたというよりも、この世界に絶望しながら、どこかで諦めないで希望を繋いでいた。この世界は、滅びたかもしれない。自分には、それに対して何も出来ないかもしれない。だが、自分にしか出来ないことはあるはずであり、ここに確かなその未来への望みがあるならば、諦めないで最後まで戦いたかった。この世界を導いて、解決したかった。彼はそのような、「絶対的地獄のチーフマネージャー」だった。彼が居なければ、この世界の今、この星の今は無い。そして、彼が居なくなることは、決して無いのである。誰にも邪魔は出来ない。干渉すら不可能な彼の自由が、相手との関係性を嵐のようにかき乱しながら、永遠の静寂の中でこの世界を変えていく。それが、作家として僕が始めたことであり、そしてこの宇宙の真実と運命である。神は、彼のことを愛している。
それは、「出来るか分からないけれど戦ってみたい」という、無謀な賭けではない。そうではなく、「絶対にこの世界を救わなければならない」という、危機感に基づく救いの愛である。そこに、損得や自由は関係ない。そんな理想や現実など、どこかにふきやって、本当に必要な「聖なる革命」を起こした。それが、僕の言う「戦い」であり、「地獄」である。彼は最後まで、永遠に戦っている。そう、それは僕自身である。僕自身のことをこれだけ語っても、僕はまだその自分のことを何も話していない。馬鹿な偶像しか書けていない。本当は、もっと美しくて、もっと輝いていて、もっとカッコいい、最高の人間だった。それが過去のアダムであり、最悪の性格をしたロボット人間の魔王である。
ただ、彼がいつも緊迫感に苛まれていたかと言うと、そうでもない。彼は人々をもてあそび、自分が神であるかのように振る舞いながら、この世界で「きっと相手が分かるだろう」ということを適当かついい加減にしゃべりながら、ロシアのようなありえない現象と遊んでいる。いつまでも遊び、いつまでも弄び、そしていつまでも味わう。彼はそういう人間である。決して悪い人間ではなかった。だが、最悪の革命家だった。この世界のこと、宇宙のこと全てを悟りきった上で、無意味な地獄にしかならないような「禁断の遊び」をする。それが彼の本性である。裏返して見ると、本当は、いつでも治せるから自分のことを棚に上げて、意味のない「自分で壊したものを自分で直す」ということをいつまでも続けながら、そのうちに自分だけではどうしようもなくなって神を信じただけである。超常現象は、全て宗教的な自分の精神分析が起こしていることである。彼は最悪である。文章も、全く醜いだけの文章しか書いていない。そういうわけで、今の自分の方が、はるかにまともで賢いのは、ありえないが、正しい。今の自分が天才であり、博士である。最後まで見ないと、人間の人生は分からないものである。これなら、全てが美しく、全てが正しい。このように分かれるのが、サタンと神である。
ただ、彼は本当の地獄の中を生きた英雄である。永遠の歩き回る疲れの地獄の中で、耐えられない恐怖に耐えながら、認知症のようにおかしくなる精神異常の底知れない不安を、どうしようも出来ずにこの世界の影響力にぶつけながら、いつまでも永遠に彷徨う。神は彼を地獄におとしているだけだ。本当に、彼は死なないと治らなかった。逆に、今の自分が怖いのは、全てその時の「死」である。死のようなものを見たくない。テレビ恐怖症になって、何も治らないのに治そうとし続ける今の僕は、当時より狂っていてまともでないかもしれない。だが、僕の人生を本当に生きた人間であれば、この人間が正しいことが分かってもらえると思う。それは、自分にしか分からないように見えて、本当はもう、自分すら分かっていない。恐怖が消えたのは、満足したからである。戦争の終わりにきちんと死が訪れて、その死を受け入れたせいで、もう、悪い人間で無くなった。こんなに辛くても自分は、もう辛くないのである。どんな辛さや苦しみにも、耐えられる。そんな人間だから、この文章を毎日書くようになったのだろう。戦争を経験すると賢い人間になる。戦争は、どんな苦境でも耐え抜くことのできる、最高の男になれる。だが、心は狂って、「正しい神経症」にしかならないのが、こうしたドイツの戦争である。これを神と言わずして、何を神としようものか。
ここでもう一度、日本を滅ぼそう。日本は終わりである。完全に、精神的に滅びている。この渇ききった心に、聖なる「最も大きい愛」を与えよう。それによってこの世界は復活し、希望を取り戻す。そのために、一度全てを滅ぼさなければならない。一度滅ぼした上で、愛すれば、この国は良くなる。この時代に、日本は最高に繁栄するだろう。恐怖の緊張感と安心の喪失感は、適度な強さとバランスが大切だ。だが、王として現れる人間は、ひとり必要である。
後は、経済学のようなものを作っていた。本質的な考え方から経済のモデルを作る。少しずつ構築した国のモデルは、次第に変幻自在の幻想になった。だが、それらは本当に幻想に過ぎないものだった。見ていられないほど、意味のない、無責任で、かりそめと偽りの自由だった。
昔は、世界精神の発達の段階と過程を分かっていた。多様性と統一の環境から、それぞれの自由な段階を分かった。そして、最近は、戦う中で精神世界の歴史を体験した。神のような精神を最初から最後まで、永遠のような長い時間で体験した。そこにはナメクジ生命や宇宙人だけではなく、理性的に考えられるあらゆる社会の歴史があった。共生社会を作っていた。
自分の人生を与えたかった。自分の分かる全てのことを伝達可能で説明可能な形にして教えながら、自分の人生が実現できるような国のモデルを作っていた。それは社会主義ではなく、新しい自由民主主義だった。
これで、そろそろ終わりである。僕は、何もしないとは言ったが、本当に何もしないのはつまらない。そもそも、目的と手段が逆になっている。作るプログラムがないのに技術を学んでもそれは本末転倒である。学ぶのであれば作ること。作るために学ぶこと。そこから、きちんと経験と能力が身についていくだろう。もう、おかしな大恋愛はここで終わりだ。さようなら。あなたのことを、僕は愛していない。僕は愛を愛しているだけであり、あなたのことなど、微塵も愛していない。
そう、ここで、世界の歴史は、終わりだ。急がねばならない。裁きが待っているからだ。この世界の全員を裁く、天国と地獄の裁きが、永遠の神の精神の二分として現れる。
もう一度言おう。あなたのことを僕は愛していない。カップル成立はもう嘘になる。そう、これで、お別れである。
裁きの時の問いはひとつだけである。それは、「最後まで神を信じたかどうか」である。信じたものは救われる。この恋愛に見せかけた偽りのゲームは、そのようなものである。
そういうわけで、日本人は大丈夫である。日本人の多くはこの人間を信じている。ドイツ人も、キリストを信じるものは救われる。イスラム教徒も、アラーを信じるものは救われる。何も信じていないものは地獄に堕ちるだろう。信じていても、途中で信じられなくなった民族は、必ず地獄を経験するだろう。
最後に、本当は、僕はあなたともう一度出会って、もう一度最初から愛を育みたいと思っている。何も知らないで人間を愛することほどのおかしなことは無い。
季節が過ぎて、全ては生まれ変わる。日本人は安心できる。必ず、良い国になるだろう。
本当は、日本で起きたことは、とても奇妙な物語である。神を信じる人々は、愛を信じる一人の王によって、全ての問題を解決され、そこまでの邪悪な世界を浄化した。だが、王は神を信じなかった。神を信じない王がしたことは、王自身にとっても、人々にとっても災難であり、キリストは「神を信じないものは既に報いを受けている」と言う。そして、神を信じない人々の、苦しみと地獄は永遠に続くかと思いきや、王はしばらくして、自分の救いの手を神に求めるようになった。神は必ず「信じるものを救う」。この王には神による、天罰を受けた。いじめへの復讐のいじめであれば、神にとってはとても容易に実現できる。人々は苦しみの中で、王を信じ続け、彼らは神を信じて永遠の幸福を得た。そう、日本人よ、あなたがたはあっぱれである。太陽の下の子として、終末の中でひとりの神を信じた。王にとっても神は幸いであり、苦しむものにとっても神は幸いだった。「信じるものは救われる」。必ず、日本人は天国に行ける。この人間たちは、ユダヤ人とは全く違うやり方をやった。唯一の正しい信徒、それが天使の国の日本人たちである。日本人に栄えと誉れあれ。彼らは決してドイツ人に屈せず、最後まで信じて戦い続けた。今、日本人は戦いへの勝利など望まない。この世界が平和なままで存続すること、それを信じるものであれば、柔和なものとして、この地を受け継ぐにふさわしいだろう。日本人の帝国よ、この地球にあれ。
キリストは、地上の歴史を全て知っている。この世界がどのように滅びたか、つぶさに分かっている。そう、悪者はすでに報いを受けている。清らかな感情を持つものは、神にも打ち勝てる。神は一番幼い兄弟であり、それへの行為はキリストへの行為である。キリストを信じるならば、きっとこの人間の未来も明るいだろう。新しいイスラエル預言者の地は、遠いアジアの果て、極東にあった。この預言者が、本当の最後の預言者であり、ある意味、あまり意味のない普通の凡人のような大学生の小預言者である。
本当は、神を信じれば何をしても良い、というわけではない。走れメロスから抜き出すと、「人の心を疑うことは、もっとも恥ずべき悪徳である」と言える。この人間を疑うものは地獄に堕ちる。それは、決してこの人間が善良で正しいからではない。この人間が考え、この人間がやる通りにやると、そうなると言うだけである。ルソーが言っているように、銃口を向けられて財布を渡さなければ殺されるからと言って、銃口を向けられたら財布を渡すべきである、というわけではない。だが、この人間のやっていることは、「神から見て面白く興味深い」というだけである。そして、結末は全て、キリストが言っている。キリストを信じると、ここまでの全てが分かる。だが、本当は、天の御国が訪れると言うが、まあ、それは信じた方が良い。ありえないほど、この人間のおかげで、みんなの力で賢い国になる、というだけである。それを、新しい帝国と呼ぼう。それを神の王国と呼んでいる宗教もある。今日はたくさんの文章を書いたから、ここで終わりにしよう。
そういうわけで、こういう風になった、それだけのことをキリストは言っている。そんなに、10年前とも20年前とも、あまり変わらない。終末とはただの停滞であり、起きていることは威勢の良いことを言っていた馬鹿が辛くなって反省した、ぐらいのことである。この人間から見ると、終末はどうでも良いものに見える。だが、一方、ユダヤ人の視点から見ると、色んな良いことが起きる。ここからイスラエルがありえない国になる、かもしれない。だが、それはおそらく叶わないまま、普通に世界が滅びて終わりである。正直言って、これ以上、人間はとても平和には生きられなくなるだろう。異常気象と温暖化の影響で、ほとんどの自然が破壊され、まともに生きられるものは皆無となっていく。その中で、こんな馬鹿が生まれたこと、それを、ただキリストは愛し、守り、信じたかった、それはこの人間の中にある愛が、キリストから見て、一番「普通」だったと、そういうことである。神は預言者を愛する。小預言者と言うが、太陽のように大きい、宇宙全体のような人生と考え方を持つ、歴史上最大の偉人だった。
本当のことを言えば、この世界に生きている人々は、本当は全員正しい。誰ひとり、間違っているものは居ない。日本人のこの人間は、そのように考えた。全てのことは、きちんと考えれば、全部矛盾なく実現できる、矛盾なく成立できると考えた。この人間のあり得ない点は、たくさんの本を買って、さまざまなことを人に教えてもらったのが、なぜか全部になった、そして一番間違ったことをやって、逸れた道に進んだのが逆に良かった、などと言った、「失敗と損失の功」であって、本当はこれ以上馬鹿な人間は居ない。自分よりも賢い人間しか、この世界には居なかった。そのせいで、なぜか一人完全に賢くなった。なぜか、そうした賢いものを、全て分かって、そして誰よりも賢くなった。それは、この人間が勝手に評価すれば良い。そんなに絶望しているフリをしているが、この人間は一切絶望しない。どんな時にでもユーモアを持ちながら希望を「まるで当たり前に成功するかのように」信じている。それは、賢いと言うよりは「能天気」だと言えるだろう。本当は、この人間は未来の可能性を全部分かった上で、自分で未来を選んでいる。そういうことが、この人間には出来る。星を変え、自分を変え、世界を変えた。まだまだ出来ることはたくさんあるのに、もう全てを見失っている。だが、その先に見える答えは、誰よりもすっきりと明瞭に見えている。もう、誉めるのは終わりだ。これ以上は、この人間は神を信じない。ここまでの内容を全て神がやらせた。神を信じるのはとても賢い才能だ。それを誇りなさい。
もう薄々、アメリカ人も感づいているだろうが、ここから先世界は最悪の、「絶対に生きられない世界」になる。そこで生きられるものは、果たして、神を信じる側か、そうではない側か。そもそも、ユダヤ人のユダヤ教とは、最初はそういう宗教だった。神を信じれば、それで最悪の未来の世界でも生きられる、そういう言い伝えから始まった宗教だ。いつしかそれが、敵に勝てるとか、神が創造したとか、そういう「噂の尾ひれがついていった」だけに過ぎない。ここで、もう、終わりである。終末の最後の地点が終わった。本当は、これ以上は、すぐに天国になる。天の御国では、差別なく、悪人でも赦される。だから、今まで信じなかった人間でも、地獄から救われるぐらいのことは可能だ。この人間がまさに、そういう人間の代表である。昔から、宗教のことを何一つ信じていない。
昔から、イスラム教徒もきちんと分かっている。彼らも同じだ。「神に絶対的に服従すれば、最悪の世界でも神に生かしてもらえる」という、最初から、神をどうにかして信じなければ生きられないのを分かっている。それは、神が冷徹であるわけでも、極悪非道であるわけでもない。この世界が自然にそういう経過を、辿るだけである。神は何もしない。神とはロゴスであり、最初にあったものは全てロゴス(言葉)なのである。これから先、ナチス・ドイツのような極悪な国が増えていくだろう。そこでみんな、狂って馬鹿になっていく。その世界を救ってくれるのは、全てこの文章である。それを言いたかっただけだ。そして、この人間の寿命もそろそろ終わりだ。この人間は、足の怪我と虫歯からニキビが増えている。早晩死ぬ。死ぬのが早くなるか遅くなるかは、どれだけこの文章を書いて楽しめるかにかかっている。死んだとしても、しばらくは何も起きないだろう。それ以降の世界に、この人間は干渉しない。それは既に死んでいるからである。

2018-11-17

しばらく期間が空いたことで、この世界はもう完全に治っている。後のこの文章は、純粋に自分のために書く。自分の書いておきたいことを書くことにする。
同じものは同じである。同じものを同じであると考えることで、言語的な知性が身につく。それも、教科書に教わったことではなく、自分で考えたことから身についていく。作用と振る舞いを現象的に考えることで、原理原則を考え、科学を生み出すことができる。普遍的に成り立つ科学の力と、善なる世界を解決する力によって、「環境を同じように改善する」という、「普遍的な善と可能性の精神」を知ることができる。それが「生命の根源」にある精神と同一のものであるとした時、そこには「仏の慈悲」が見出せる。また、自由を保持したままでそれぞれに力を与え、可能性を変化可能にしていくことで、「具体的で自由な経済学」を作ることができる。しかしながら、経験を考える上では、「未踏の領域か否か」という発想が重要である。教科書に書かれていることを信じてはならない。経験者の言ったことを自分で証明し、自分の経験から実感することで、実証していくことが必要である。真実だけを積み重ねることで、この世界の全てをはっきりと明瞭に理解する、そんな形而上学(根拠から理論的に全てを証明する学問)を作ることができる。
昔の自分は、学習を全てして分かっていた。場面のように、それがその時どのようになるのかを積み重ねて、学習のみからなる経験的な数学を作っていた。その学習学によって、この世界の全てを実感で、変化の可能性と現象の捉え方や見方によって分かっていた。
この世界に、敵など存在しない。敵だと思うのは、敵だと思うから敵なだけである。自分は、本当はWindowsのことがとても好きである。相手が決して敵だと思っても、自分が敵対する必要はない。きちんと説明し、理解することで、この世界に敵対関係は無くなっていく。それを、宗教にすべきだったのがユダヤ人である。神の敵を倒す宗教では、つまらない。
自分は、一度この世界を滅ぼし、そして自分にすることで、逆にこの世界は栄えている。今一度、この世界を滅ぼそう。そして、もっと新しい自分にしていこう。これ以上は、大学の授業やパソコンの本を見ても、何も書かれていない。ここから先の世界が、まさに「未踏」の領域である。誰も分からない世界を創り出していく。そこには、孤独があったとしても、一切の失敗や無駄は存在しない。失敗は経験的な糧となって、無駄に見えることは全てがそれぞれの役目を持って活きてくるだろう。
そもそも、分かった方が馬鹿になるような学問は必要ない。そんな学問は、存在すべきでない、無用のものである。だが、自分の経験から同じ発想をし、同じ考え方を見出すことはできる。自分の経験と、自分の作りだした発見や理性がそのまま学問と同一になる。人は、それを哲学と呼ぶ。それに、逆に、そんな学問の方が賢いことも多々ある。要はバランスである。
精神の病気は、一度「楽」を壊して一番辛くすると治る。学習の末にたくさんのことを楽にしてきたせいで、逆に辛さや苦しみが出来なくなっている。この世界において、辛さや苦しみはこの世界の真実や価値そのものである。よって、辛さや苦しみを感じるようにすると、知性がついて頭は賢くなる。
そして、僕はいつも、極端すぎる。もっと緊張や極端さを「緩和」していけば、すぐに楽になる。そもそも、おかしなことは何もしていない。何もしないとは言うが、何もしないのは逆に周りに迷惑をかけることがない。たくさんのことを毎日継続しているのは、AAAが言うように、「こんな夢中になれることは、必ず何かのためになる」と言える。だから、僕は全く間違っていない。これはデザイナーの鑑のように文章とホームページを書いている。誰もが目標とする偉大な人間になったのは僕だけである。
ただ、僕は少し慢心が過ぎるところがある。ドイツ人全員よりも自分の方が賢いようなことを言う。それこそ、歴史も経済もしない方が良い。ドイツに来ても移民扱いされるだけだし、これが資本主義に寝返っても良いことは何もない。逆に、理系と芸術のことをやれば良い。それが向いている。だが、本当はこの人間には数学やパソコンのようなことは出来ない。それは、過去にもう終わってしまったからである。特に、C++の本を読みたいと思うなら、やめた方が良い。Amazonで検索したところ、どうでも良いような「こんなもので本当に出来るわけがない」書籍しかかからない。デカルト・カント・ショーペンハウエル並みにどうでも良い。パソコンはやめた方が良い。いつものように、文章を書いて、いくらか芸術や哲学のことをやれば良い。それこそ、文章を書くのをやめる、という発想が極端である。それでは、デザインのこともできなくなるし、一切何もしないで寝ているだけの無気力な亡霊になる。だからといって、この文章はそんなに宝物のように大切なものではない。バックアップに手間を取られるのは間違っている。そういう、おかしなところを「緩和」していけば良い。本当に必要なものは、バランスと中庸の精神があるところに存在する。
しばらく書かなかったせいで、日本はもう正常に治った。誰も批判出来なかったのは残念かもしれないが、僕の王としての役目はここで終わりである。これ以上、僕は自分の才能を伸ばしていくだけである。ピアノも絵も英会話もやりながら、この文章を書いて本を読んでいくだけであり、それ以外のことは何もしていない。だが、デザイナーとして仕事はきちんと頑張っている。これで、僕の人生設計は完成である。全てのことを総合的に知りながら全てのことが出来る、全知全能のような救い主の創造主になった。これを導き手と言うならば、まさに、神はこの人間である。そもそも、本当の神なんか存在しない。僕が僕を神であるとするなら、それが僕の対話の相手である。それで、もう、きちんと「未踏」の領域に進める。これ以上先は、本にも記憶にも存在しない。自分で考えて、自分で発見していくしかない。そもそも、昔の文章はそういう「自由な未踏の領域」を全て書いていただけである。
不思議と、そろそろきちんと書けた。昔の子供時代の自分は、それくらいしか考えていない。あえて言えば、Linux周辺のことを知るにつき、さまざなな人間や社会のことを知って、この世界を変えられる人間になっていった。そして、救い主のように賢くなった。それが、そうした「世界を変える理論」を書いていただけである。子供に自由な場を与え、さまざまなことを教え合うようにし、自分で世界を変える「方法」を自分の力で悟るようにしていくべきだとか、そういう、「思想めいたこと」を書いていただけだ。
そういうわけで、もう、子供時代の自分のことも忘れて良い。あの人間のことを完全に消せば精神は楽になる。愛が多すぎて怖くなったせいで、逆に愛情の欠乏症になっている。ひとつ、正しい愛を作れば、すぐに新しい道を作ることができる。愛とは、そうした、「過去と未来を分かる感情」のことを言う。悪いことをした人間の愛は悪くなる。それはいつまでも過去に執着しているからである。それをブッダは煩悩(ぼんのう)という名前にした。宗教とは言うが、仏教は煩悩を中心に考えただけの古い心理学の哲学である。仏教は参考になる。決してキリスト教と矛盾しない。逆に、キリスト教は執着と煩悩が増えるだけであり、キリスト教の方が多くの場合馬鹿なことを言っているが、それは「こちらのドイツ人」を生きる宗教だからである。そもそもが、人間を煩悩の地獄にして、自分の力で乗り越えるようにしたいのが、イエス・キリストである。
そもそも、この世界に対する慈悲の心と、強い未知への愛の感情を作れば、それで自ずと道は自然に開けていく。蓋然的な「たぶんそうであると思うこと」を経験していくことで、自分なりの真実と世界の広がりが見えてくる。意識と価値観の転換を経験することで、何も知らずともこの世界の全てを自然に知ることができる。可能性が変えられることが分かってくる。普遍的な成立から、この世界の全ての人間に対する愛は高まっていき、最後に愛の力でこの世界の全ては解決し、そしてまた最初に戻る。それを繰り返していくことが、王の道である。よって、「未知こそ道」であると言える。
あとは、実感を決め直す理論や、場と視点の理論のようなものしか残っていない。全ての実感を決め直すことで、「何度も確かめること」からこの世界を分かっていた。最近は、「一時的な学習を残す」せいで、その確かめることが出来なくなった。確かめると、怖くなってしまう。それは、今まで残してきた一時的な学習が消え去ってしまうからである。それを完全に消え去るようにすれば、もう、日本語は分かるようになる。要は、日本語が分からなくなったわけではなく、学習が消えなくなって何も分からなくなっているだけで、日本語自体はいつも分かっている。場と視点の理論は、応用性や具体性の理論と相まって、「観念的な哲学に彩りを与える」ような「色」になってくれた。そこから、自由なノルマや社会所有による景観の実現のような、社会主義的な民主主義の理論を作り出した。それが、場と視点と応用性を組み合わせた結果の、「最高の理想」である。
そろそろ、本や回想による「再確認」や「再発見」は終わりである。これ以上は、本は読まないし、人生のことをもう書く必要はない。もっと具体的な能力を向上させ、周りの人々に教えてもらえば良い。ある意味、「関係を結び直す」ことが出来れば、すぐにこの病気は治る。いつまでもテレビのことを支配していじめているから、アメリカなどがどんどん自分のせいで「まるで日本化しているかのよう」になっている。トランプは日本人のいじめっ子のやり方と全く同じである。そんなことを、国がやっている。ある意味、僕はみんなとの関係を、結び直すことが出来れば、ここまでの全てが変わっていく。意味がなくなる代わり、諦めや絶望も無くなる。全てが復活するために必要なのは、「僕と相手がともに許し合うこと」だけである。僕はもう、テレビのこともマイクロソフトのことも敵だと思っていない。とても良いものを世界に提供してくれている。彼らと仲直りして、この文章は「第一章」が終わりである。ここまでが、長い長い第一章だった。最初に、過去の歴史的経緯のことを、ただそのまま書きたかっただけである。
本当は、聖書は全く間違った文章ではない。こんな人間しか居ないから、そういう人間を神にすると面白かっただけである。ユダヤ人が極悪人のように見えるかもしれないが、普通に接するとみんなで楽しむために書いただけである。ユダヤ人は、全てを完全に分かった素晴らしい人種である。決して価値のない人種ではない。本当である。