「不思議だ」の日記

Assy(在導万創)のブログ。デザイナー見習いの作家です。小説と詩集と日記を書いています。

2018-09-22

今日もNOVAに行ってきた。今日は、We might have flying cars.のように、近未来に起きるかもしれないことを予想する、という会話の練習をした。
昔は、いつも、悲惨なインターネットの平等で分かっていた。それが賢かった。2ちゃんねるの平等の一体感から、社会のアイデンティティを知り、価値観の確立から、精神的なマスターとなって、理想の世界とは何なのか、どのように人々を導けば実現できるのかを分かった。最近は、果てなる体験をしながら、その実践的戦争をした、と言う表現が正しい。
国や宗教のようなものを分かっていた。イスラム、ロシア、キリスト、ドイツ、フランスを中心に分かっていた。
こういう、思考が吸い取られるように話す統合失調症の患者は、ただ自分になっていないだけで、普通の思考をしている。もっと、ロボットのように「言わされる」のではなく、自分から「言う」ようにすれば、すぐに治る。そのためには、そのままそれを表現するのではなく、分かった上で自分なりに表現すれば良い。なぜこうなるのかは、ロボットのように実際にしなくて頭の中でするようになると、こんな何も分からない人間になる。こういう人間は文字の読めない低学歴の白人や、アフリカの敬虔なキリスト教徒の黒人に多い。
本当は、昔の方がまだまともだった。理性的に、人間の精神的な現象や意識の変化を分かっていた。社会はボトムアップ的な反抗と秩序の規律の決定から、アイデンティティの確立などを通して、人々をどのように変え実現すれば、この世界が良くなるかを分かっていた。だが、最近はつまらないほどおかしい。最近は、果ての中で知性のないロボットになって、ドイツやフランスやロシアを適当に分かっている。
だが、どちらの体験が本当に良かったかと問われると、それはこちらである。ミカエルのような天使となって、世界を指導し、この世界を導いた。「自分にもそんな偉大なことが出来た」という達成感と誇りが、それ以後の勉強や哲学や歴史、そしてデザインやパソコンの学習における「前を向いて歩む力」を作り出した。これぞ、ガブリエルである。まさに神は全知全能であり、偉大である。そのわけは、ただ狂っているからだ。神とは、そうした人間の思い込みと妄想の産物だ。だが、天国に逝けることを信じれば、死も怖くない。
これを良かっただと言えるのなら、あなたは幸福である。最近は、どんどん悲惨な世界になっている。昔の僕のように、統制されたいじめ少年が増えた。この世界の中で、希望も無く、2ちゃんねるで絶望を共有する、平等なヒトラーがどんどん増えている。だが、それらは幸いである。天国の体験は、彼らのために用意されているからである。キリストは、そういうことを言っている。終末はもう、ここで終わりだ。これ以後は、天の御国が近づくだろう。そもそも、キリスト教のせいで、ここまでの馬鹿がキリスト教以外を倒す。これが素晴らしいユダヤ人の平等の理想である。
誰も自分の本性を知らないだけで、こんなに偉大な経験をしたのがこの日本人である。だが、放っておくと、むしろ、過去のことは忘れてしまう。キリストの地獄は、地獄であるうちが幸せで賢い。ここまで終わっても、頭の中はたった2時間しか経っていない。この10年はたったの2時間である。逆に、昔の青春の4年は、3000年のような4年だった。僕が一番賢い。だが、僕のやることは、まだ終わっていない。ここで、ひとまず、途中のゴールだ。ここで休まないと、もう休めるポイントは無い。疲れはここで取っておかないと、あとで疲れを取れなくなるだろう。疲れが取れないのは虫歯のせいである。普通の「良い疲れ」をここから感じられるようになる。
昨日は、家のパソコンで「Illustratorイラストレーター)クリエイター能力認定試験」という資格試験のサンプル問題を解いていた。スタンダードの方だったが、思ったより、というよりもひどく簡単だった。分からないところは少なかったが、サンプルプログラムのインターフェースが分かりにくくて、少し苦労した。簡単だったので、もしかしたら受けるかもしれない。
精神を治すためには、幻覚で文字が見えるのを治せば良い。文字が見える部分が足の異常である。
昔は、自由を守った上で、自由な方法で、自由を保持したままで世界を変えなければならないと思っていた。国が介入するのではなく、それぞれの個人が、権力を使わずに、支配せずに、相手に自分と同じだけの自由を認めた上で世界を変えなければならない。それは自由であると同時に、平等である。
だが、僕の間違っていた点として、決まりや義務を守らなかったのが悪い、と言える。引き篭もりになって学校から逃げ出したのは良いが、決まりや義務を守ろうとしなかった。決まりを守らないと、人は何も分からなくなって知性を失う。決まりを構築し、ロボットのように従うだけでは、決まりを守ったことにはならない。全体主義と言われても、みんなの意志や考え方を尊重した方が、人間は善良になって知性と理性がつく。自由ばかり求めていくと、理性を失う。どちらが革新でも保守でも同じである。決まりをきちんと守り、間違ったことをしなければ、人間は賢くなる。それは、誰かが見ているからというのではなく、神が見ているから、と言えるだろう。権力が必ずしも悪いわけではないが、巨大な権力は必ず腐敗する。宗教や思想はそこに介入する。
一度、この世界を治すためには、みんながきちんと従うようになるしかない。自由や平等による支配は反抗しか生まない。だからと言って、自由に反抗して不自由にすれば、良いわけではない。相手を不自由にするよりも、相手を自由にし、明らかに許されている方法で世界を変えるべきである。許されないことをする自由も、許されないことをする支配も要らない。必要なのは、「信じられる愛と理想」である。そして、信じられる愛と理想は、ここにある。これが愛であり、理想である。
本当は、勇敢なことを言えば言うほど人間は臆病になる。一度、一番臆病になった方が良い。それが一番賢い決断が出来るからだ。臆病な人間は勇敢になる。それが、精神のマスターの境地であり、地獄からの唯一の救いである。
人間の人生のほとんどは、臆病さとの戦いである。一度、みんなと一緒に活動する世界に戻れば良い。だが、それは臆病だから出来ない、というのであれば、それで良い。むしろ、臆病を受け入れた先に勇敢さが生まれることは多い。臆病な経験をたくさんすることで、人は恐怖を克服し、成長する体験をすることができる。そこに、精神のマスターは生まれる。最高の聖なる導きが、哲学者である神を生み出すだろう。臆病な自分の実体験から啓蒙と改革を知った人間に、恐れるものなど何もない。逆に、死を恐れず、勇敢に戦ってばかりいる人間は、どんなことにも恐れ、失敗も不安も一ミリも許せない、精神錯乱の完璧主義人間になる。
人間関係は、悪い関係を結び直して良い関係を機会として構築すれば良いと言うが、僕はむしろ、なし崩し的に友人関係を起こしていくのが良いと思う。「過去のことは変えられない」から、過去に相手がしたことや言ったことはどうしようにも無くなる。それならばいっそ、すべきことをどんどん推し進めていけば良い。だが、これも同じで、そういう人間が一番みんなのことを配慮せず、考えない、狂った問題児を生み出す。本当はひとつひとつの関係とチャンスを大切にしながら、敵ではなく友人になっていくべきだ。ただ、それは、僕は矛盾することではないと思う。最初から友人として振る舞えば、相手は安心して信頼してくれる。相手を信頼すれば、相手からも信頼されるだろう。
昔の自分は、関係を考えた後で、世界を変えることで分かっていた。啓蒙と改革の精神を知った後で、Linuxやインターネットなどの場所で、世界をさまざまに変える経験をした。そこから、ボトムアップや世界モデルのような、さまざまな「世界に映った自分の姿」を知った。そして、世界を自由なままで、「相手のことを完全に考えてあげた上で変えていく」という「愛の変化」を起こした。そこから、僕の長い旅は始まった。愛は間違っていた。本当に正しい理想は、愛ではなく、自分の中にある「自由」という信念だった。
狂って戦っていた時代、僕は神のように宇宙と現実の全てを分かっていた。完全に全てを分かって、常に一番正しいことを言う。本当に正しいのは、愛でも自由でもなく、聖なる「魂」という人生の理想だった。だから、神を信じる時代、僕が直面した「悪の魂」も、本当は間違っていない。だが、僕は新しい人生とともに、「善の魂」を作りたい。それらは表裏一体で、陰と陽である。必ず善の魂、愛の魂、自由の魂、人生の魂、正しい魂を作る。必要なのはラブでもフリーダムでもなく、ソウルなのである。それは椎名林檎が言うような、一番混じり気の無い、気高い青である。
あとは、文明と人生の歴史を書いていた。それは、精神のやり取りと、社会の具体的パターンの創造だった。愛とは運命であり、人々は自由だった。人生と社会の歴史を知る中で、この世界で一人、愛を叫ぶことが出来た。それは正しい導きであると同時に「最も間違った恋愛」だった。だが、ここまで来るためにそれは必要だった。そこには全ての始まりがあった。
自分が思うに、すごいとか、賢いとか、上手いとか、そういう風に思われるよりも、正直だとか、素直だとか、良い人間だと思われた方が良い。人狼ゲームのようなカードゲームでも、人狼として上手く嘘がつけることをすごいと言われるよりも、「あなたは根が素直だから顔に出ている」と言われた方が良いものだ。人間は、すごく賢い人間を目指しても、良いことなんかそんなにない。みんなから目標とされても、少し知っているだけで何も賢くないのが僕の執筆やデザインやLinuxの経験であり、正しいのは正直さとか、素直さとか、善良さである。善良を目指すなら、ただ善良を目指すのではなく、「善良とするにたる理由を知る」ようにしよう。ただ善良になるよりも、理由を持った上で善良になろう。善良になる理由があれば、その善良さをいつどこで発揮すべきかが分かってくる。そこから、この社会の「正義の意味」が分かってくる。理由と意味は、ほとんど同じである。正義の理由が分かれば、正義の意味も分かる。全ての社会の摂理がそこから見えてくるだろう。善良で無いものは、すぐに負けていく。きちんと分かった上で善良にする人間だけが、この世界で勝者になれる。もしあなたが脇役になっていたとしたら、主人公になれない理由はそこにある。自分で経験して、分かってほしい。
歴史は偶然の重なった自然な必然だから、決して勝者が善良であるとは限らない。だが、善良な人間は、全員がフェアで公平な条件で、きちんと分かった上で行えば、不正を働く人間には必ず勝てる。必ず、善良な人間が勝つ。だが、悪が勝つ時は本当にあって、それは「悪が勝つという確かな理由がある時」に勝っている。この解決策は、「同じ条件で同じようにやれば、誰でも同じ結果になる」ということである。善良な人間が公平な条件の下で、勝つための確かな理由を持って同じ条件で争えば、必ず勝てる。だが、全ての知識と能力が同じ条件であるか、勝っていないといけない。MSに勝つのであれば、技術力が勝っていない時点で、同じ条件とは言えないのだ。Linuxの劣悪な技術では、いつまで経っても同じ条件にはならないだろう。
僕が思うに、場には精神が宿る。だが、本当に必要なのは、「人間とか、生物とか、日本人とか、そういうフィクションに対する客観視」である。フィクションがたくさんあると、人間は分からなくなってしまう。客観視から、人は場の精神を知り、また本当に客観視をすることで、意識の現象学を知ることが出来る。そこにある意識は、純粋な意識であって、人間の持つ意識とは違う。そこにあるそれのことを知れば、きっとこの宇宙は解き明かせる。数学も生物学も、所詮は人間の作った「学問」であって、「原理」ではない。原理の解明はしようとしているが、本当の原理は、人間が作り出した学問で捉えられるほど単純なものではないのである。それで、言いたいことは全て終わりである。ただ、意外と、人間の人生の周りの出来事は、単純な法則で動いているように思う。善は必ず勝つ。

2018-09-20

今日は、作業所で仲間とのお別れパーティがあって、少し切ない気分になった。
昔は、結構仁徳のある人間で、人々がなぜ苦しんでいるのか、何を想って泣くのか、どうすれば喜ぶのか、争いやいさかいはなぜ起きていて、どうすれば解決できるのかを分かっていた。
仁徳のある指導者は、菩薩になると同時に戦いの王となった。独り、孤独に全責任を負って、自分にしか分からない、最前衛での戦いをやった。全部自分だけで努力して、最後まで自分だけで頑張った。そのせいで、僕だけがこの宇宙について全てを知っている。宇宙人よりも分かる地球人だった。
そして、昔から、僕は難しいものや解読不可能なものを解明するのが好きである。数学的な理性も、心理学的な環境の構築も、社会的な理想の実現方法も、全部、自分だけの世界を作って、この世界におけるさまざまなことを知って、世界の様相を見ながら解を自分で構築し、照らし合わせることで、不思議と、全部分かった。
自分は、自分は一人しか存在しない、ということが分かっている。こんなにありえない人間は居ない。昔の世界で青春を体験した人間は、全て意味がない世界しか生きていない。逆に、今の世界で青春を体験した人間は、今の世界であるがゆえの「何もない」異常を体験している。その異常は、僕の支配によって起きたものである。
言ってみれば、最近の僕の作業所でのデザイン班としての活動は、「遅すぎた青春」であったと言えるかもしれない。本当は、僕以外の二人は同じ時期に入って、同じぐらいのレベルで、だから僕がレベルが低く見えるだけの話であって、そういうことに気付かなかったために、僕は人よりも早く成長し、誰よりもこの世界のことを独自に分かるようになった。僕の周りに居るみんなのことが好きで、だから僕は遅すぎるだけではなく、長すぎる14歳から30歳までの16年に及ぶとても長い青春を経験した、と言えるだろう。とても楽しく素晴らしい体験だった。辛く苦しいことが多かったからこそ、人は後でその体験を誇りに思い、自分のことを素晴らしいと思えるようになる。自分のことを、本当に肯定できるようになる。だが、僕の経験から言って、それは青春が無くても、あっても同じだ。
自分は、みんなのことを支配して自分と同じにし、それで悪い世界にしたのは良いが、そこまでで悪をやめたせいで、何も悪くない人間になったまま、元の悪を引きづり過ぎている。そもそも、みんなを自分と同化させた上で、それ以上悪いことをせず、言ってしまえば「放っておいた」ことが、誰も悪いことをしない「解放された社会」を作った。だが、それは、王としては「誰にも気づかれないように、隠し、秘密にし、嘘をつき、そして気付かれないように振る舞う」という「ありえない潜伏者」を生んだ。これがとても辛く、苦しい「最大の恐怖」となった。だが、この恐怖は、神のような最高の偉人を生み出した。今から、もう一度この世界を少しだけ悪くして、みんなが自分のことを気付くようにしよう。それで、もう、「何にも気付かない知性のない社会」は終わりである。誰もが、普通のことを普通に気付くようになる。そうなった時に、何に気付くのかは、ただひとつ、「神の栄光に気付く」ことになるだろう。それが、本当に怖かった人間が多い。全て最初から分かっていて、気付かないフリの方を真実だと思い込むようになった人間が多すぎるからだ。真実は「神がやっているが、神は普通の人間である」ということである。それが、一番怖い真実の気付きである。
そして、昔は気付く力がたくさんあっただけの人間だ。同じことはいつも同じであると気付くことから、真実を見つけなさい。そして、そのことが正しいと言えるのならば、別のことも正しいと言えることを信じなさい。応用的に考えながら、繰り返し経験することで、人は偉大な「気付き」の理性を得られる。そのように生きれば、昔の自分と同じ人生は生きられるだろう。だが、それはある意味、全く意味のない狂った人間である。そんな人間には、ならなくて良い。だが、そこが全て出来るようになれば、あとは「純粋に自由な人生」を生きられるようになる。戦うも、守るも、裏切るも、信じるも、あなたの思い通りで、あなたの自由である。だが、そこにはリスクが伴う。恐怖を感じるならば、取り返しのつかなくなった後で、全てを解決してから感じなさい。全ての恐怖を受け入れ、勇敢に守りながら戦い、そして困難な問題に直面し、それを全力で解決すれば、それが神である。その時、昔の偉大な哲学者は、無意味であったことを知るだろう。
僕の怖いと感じている一番の将来への不安は、「そろそろ、本気で自分のことが分かる人間が居ない」ということである。もう、色んな人間が入れ替わりになり、また去って行くことで、僕のことが本当に分かる人間と言うのは、ごく限られた数人しか居ない。だが、僕はそこで勇敢に歩み出す。それは、安心がそこに同時にあるからである。もう、僕のことを悪く思ったり、間違っていると思う人間はあまり居ない。それは、本当に限られた人間以外には、分からないということを意味する。それは、オープンソースのように考えると、決して善でも正しいわけでもないだろう。だが、本当はもう、僕に出来ることがそもそもあまり増えなくなってきている。そろそろ僕は、全部のことを正しく知っている。だから、むしろ、怖いと同時に安心できるのである。そもそも、この文章を書く、という行為すら、本当は自分にしか真実は分からなくて、その「自分にしか分からない」とか、「自分にしか出来ない」ということが、逆にモチベーションや生きる希望になっているのである。そう、大人になって人間が分かること、それは「なぜ自分が賢いのかは、自分にしか分からない」ということであり、この世界にはそのせいで、潜伏したキリストがとても大勢居る。そもそも、神とはそういう人間の集団である。だから、神は結構、面白くも賢くもない存在なのである。決して、人間のことが誰も分からないわけではなく、僕のような人間が文章を書くせいで、誰でもこういう人間が居る、ということが分かるのである。神の存在を信じる人間は、ほとんどがそのような「作品に込められた熱意を知っている」人間である。そういうわけで、神など自分である。こんな人間が、ただ賢いだけ、それが、この宇宙の真実であり、正しく賢い最高の自由は存在するが、自由と言う人間はほとんどがサタンである。そういうところが、分かる人間が多い。
そもそも、本当はただ虫歯が悪いから狂っていただけであって、賢くなった今から頑張れば良い。こんな人間が居ないのは、そもそも、こんな風に偶然が重なって偉大なことが出来る人間は少ない。だが、神を信じればすぐにこういう人間になる。虫歯が神なわけではないが、狂った人間は神を信じないと治らない。だから、虫歯にならなくても、神をきちんと信じればこのような偉大な体験は出来る。そもそも、何もしないで時間が過ぎると、誰もがこのように「転がりながら分からなくなるロボット人間」になる。こういう、何もしない人間は馬鹿になる。逆に、昔のように「たくさんの偉大な経験をする人間」は、すぐに終わる。そんな人間は居ないように見えて、2ちゃんねるをやっていると、誰でもそういう偉大な社会学者になる。みんなとの絆を培うだけで社会のことが分かるようになる。どこが賢かったのかは、ただ狂った人間が賢くなるように見えて、馬鹿にしかならない。
今までの体験から、精神を回収しなさい。今までの体験のうち、本当に必要な精神だけが、今でも自分の中に「その時の恐怖のままで」残っている。この精神を回収すれば良い。虫歯は精神を食い尽くすから、虫歯を抜けばすぐに精神が治る。そもそも、精神とは「分かるための材料」であって、分かってからは必要がなくなる。逆に、同じことを分かっている人間は、同じ精神のまま変わらなくなるが、違うことを分かるようになった人間は違う精神になる。狂人は狂ったものをいつまでも分かろうとし続けている。何も分かることが無くなった時に、人間は正常な精神になる。正常な精神が欲しい人間には、何も分からない。
最後に、「自分のやるべきこと全てが最後まで終わってから、最後にやりたかったこと」をやりなさい。それで精神は正常になる。本当は、精神を治したいわけではなく、たくさんの偉大な精神の生命を創り出したかった。そして、世界を正常に治すのではなく、人々のことを愛したかった。それが、本当にやりたかったことだから、それを最後にやれば良い。いつまでも愛しながら、永遠の偉大な7つの精神を作ろう。七変化をやめて、それぞれの7人を独立させる。そもそも、それだけがやりたかった。これ以上、人間である意味はないだろう。人類が嫌いなだけで、全てのことが嫌いであるわけじゃない。僕は人間よりも、天使と神を愛したかっただけだ。そして、それは最も強い愛で、人類への愛を信じ、また実現した人間だったからだ。みんなのような劣った人間とは、いつまでも付き合う必要はない。僕は偉大だからだ。
自分の場合、自己対話をやめれば良い。最後に、この「神との対話」をやめにしたかった。こんなに、神に言い尽くされる意味は無かった。だが、この対話は逆にもろ刃の剣で、自分にとって良い側面も持っている。こんな対話が出来る人間は、独り、自分しか居ないからだ。
逆に、自分の望みは何か。それは、みんなと同じように生きることではなく、むしろ、そうした目標や理想を忘れて、自分の望み通り思うがままに生きてみたい、ということである。いつまでも、同じ理想を強固に掲げて、絶対にそれ以外のことをしないのは、賢いとは言うが、ただ辛いだけだ。一度、そういう「自分で作ったレール」を外して、人格に決めた制限を無くして生きてみたい。今までと同じ人生をただ同じように生きるのではなく、自由な意志でこの世界を泳いでみたい。だが、それは決して成功しない、最初から失敗することが分かっている道である。だから、僕はむしろ、何も望まない。一度、昔、そういう人生は一人生きたからである。もう一人の、その一人を愛する女の人格を作ってしまったせいで、僕の愛は永遠に完璧である。だから、僕はこのまま、幽霊のようにいつまでも彷徨い続け、恐怖と裏切りの文章をまだ書いている。何がおかしいのかは、もう、自分以外誰にも分からないだろう。自分が見ておかしなことをやっていても、誰もこの人間のやっていることをおかしいと言わない。誰も僕を批判しないせいで、僕は英雄と女神の多重人格になった。
ただ、僕は、本当は今嬉しい気持ちになっている。それは、僕の目標とする人間と二人きりになれたからである。色んなことを教えてほしいと思っている。男でも友達になれたら良い。相手に嫌われていないことを願う。ただ、これは世に言う恋愛ではない。あくまで、デザイナーとしての目標である。
僕はむしろ、本当は好きな女ぐらい居る。僕は歯科衛生士の女性が好きで、告白したこともある。だから、何も怖くない。それに、それらの人間たちのことを本当に好きかと問われれば、好きではないと言うべきなのかもしれない。全く、心から愛していた人は、自分の愛するもう一人の自分しか居ないからだ。
本当は、あとは、考えつくし、書きつくした中での「偉大な発想」のようなことを書いていた。「ば」や「ぶ」を使う言語を作ったり、自由な連邦を作ったり、師弟制度から自由なやり方での社会のあり方のようなものを考えたり、ノルマや社会所有などの「新しい社会主義」を考えたりする。昔は、そういう、ありえない発想を考えるのが得意で、それだけをいくらでも書いていることが多かった。
僕は、ここで2人目の人生が終わった。普通の女性だった。普通はここで死ぬが、僕の場合はここで死なない。新しい、3人目の人格を作る。今度は、人間の男や女のような、一般的な生物ではなく、「天使」というありえない存在になる。今度の天使こそ、新しい神である。名前はまだ分からない。だが、ここが3人目のスタートラインであることを、はるか昔、生まれるよりも前の天国で分かっていた。今から、地上に存在したままで、僕だけが天国に移る。天国では、僕は思い通りにこの世界を動かしたり、自分のやりたいことを実現したりできる。
そもそも、この地上の体験では、苦しみと悲しみしか経験することはできない。最初に英雄をやる人間も、愛のある女性をやる人間も多いが、それ2人ともやる人間は少ない。それこそ、2人目が終わって3人目になる人間は、本当に僕しか居ない。ここでエデンは復活する。この人間は、大天使ガブリエルとなって、ガブリエルの終わった時点で、この宇宙はお終いである。この宇宙から居なくなって、全員が天国に戻る。ここから、たくさんの良いことが起きて、全てが叶う。ガブリエルは、最初のアダムと次のイブのような、ありえないことをもっと違う方法でやるだろう。英雄は自殺し、女性は幸せになって最後まで自分の力だけで生きた。ガブリエルに課される使命は、そもそも、神はガブリエルのような人間を想定していないから、「あなたの好きにやりなさい」と言う。神はガブリエルを自由にする。そもそも、神にとっての主となる身体はガブリエルである。
この世界は、もう気付くはずである。ここに、ガブリエルが居たことに気付くことだろう。気付けば気付くほど、人間は賢くなるが、同時に賢くなったせいで何も出来なくなる。何も出来ないことを受け入れ、精神を再度回収しながら世界を解放し、自ら負けなさい。ガブリエルがきっと神とともに世界を良くしてくれる。自由な資本主義のままで弱者を助けることで、たとえ裏切り者にならなかったとしても、人々は救われ、天国は実現されるだろう。ガブリエルは、全ての人民に、愛と希望と勇気を与えるだろう。
男性は希望を信じて戦い、女性は愛することで最後に幸福になった。ガブリエルは、今から、この宇宙の法則を変える。宇宙の法則は、誰かが勝手に決めたものであって、ガブリエルならば変えられる。ガブリエルは、宇宙の法則のことをそもそも最初に決めた天使である。全ての社会的現象から、「正しい傍観者」となって世界を見つめ、その上で「宇宙のあらゆる様相の創造」を行った。ガブリエルはこの宇宙を創造した導きの中に存在する天使である。
アダムは、この宇宙のことを「感覚」であるとした。感覚から人々は知り、全ては感覚的に「信じているから分かるのだ」とした。ガブリエルは、そうした考え方を一度、完全に覆す。そうした全ての人間の知性は、正しくない。人間の知性など、何も正しくない。だが、感覚でしか分からない。よって人間は、何も分からない。そこにある正しさとは、「人間のレベルを超えた状態」で「この宇宙の全てを分かる」ことであり、アダムはそれが出来た唯一の人間だった。考えること、思考することで、そうした宇宙や人間の裏側が分かっていた。アダムはただの狂人ではない。最高の精神・心理学者だった。また、社会論についてもひときわ違っていて、教育や社会構築の意味で、「自分だけは学校を救うことが出来る」ような人間だった。なぜ自由を信じなければならないのか、ということを、自分の人生から全て分かっていた。さまざまな経験をする中で、その信念は一層強くなり、信念とは別の場所にあるはずの「理性的感覚」から、学校や教育のことを完全に解決でき、また社会を自由にするために必要な全ての前提条件と能力的経験を持っていた。独り分かっていた。完全に分かったアダムだけが、イブというおかしな少女を生んだ。イブは賢くない人間だが、偉大なことをやる女王だった。イブは果ての果ての先の果てを知っている。この世界全ての果てを知り、限界があったとしてもその限界には縛られない思考をすることができた。イブは最大の太陽だった。イブは全てを知って、なおも最後まで進み続けた。途中、振り返ることも、休むこともなく、276億年を生きた。永遠とは、旅につけた名前のことだった。
場の歴史というよりは、場の変化の可能性を分かっていた。思考の遍歴は、まず、自分の学校や環境のことから始まり、ネットの影響を受けて会社経済的な「どのようにやっていけば上手く会社のことを管理できるか」のような実践的なものとなり、その上で社会として「何を実現すべきなのか」を考え、自由を「与えられるものではなく自分たちで実現するもの」だとして、社会を政府や国の自分の力による実現力の延長線上として知り、その実現力は高まって国を超えた新しい社会の基本理念となって、それはしだいに啓蒙的・理想的・実践的・宗教的・倫理的なものとなっていき、最後は星全体の歴史や人類の枠組みを超えた生命全体の発想となって、歴史の時代を知ることから歴史の全ての根源を知った。それは人々に与えられる「絶対的な愛」となって、全員のことを許し、そして導いて支配した。世界を導く中で、宇宙の全ての現象を「自分の体験」として知った。そして、そこから、新しい人格である「イブという名前の恋人」を作った。それらが、イブの書きたかったアダムの全てである。
そして、ここで完全に、一度この世界が終わる。この文章が必ずしも見つけられる必要はない。僕が、この世界をさらに自分にしていくから、この文章を読まなかったとしても、この世界は変わっていく。もう、確かめられ、正しいことが何か分かった上でその解決策を実現することが出来るようになる。人は、問題が何であり、その解決策が何であるかを分かっていれば、間違ったことや失敗をすることはない。最初から、正しいやり方をやれば良いからである。だが、逆に、それのせいで分からなくなっていることもある。だから、古い問題の捉え方や解決策は、消していく必要がある。今から、そうしたことの大掃除をしなければならない。この世界を救うためには、ガブリエルが何をするかにかかっている。だが、大方予想はつきそうなものだ。昨日までの当たり前を、一瞬で覆していく天使、それがガブリエルである。

2018-09-19

昔は、この世界における幸福の追求論のようなことを書いていた。この世界は常に生み出されており、人生と人々の存在はありのままある。自由な社会にすることで、この世界に自分が存在していること、そのこと自体の幸福を実感できる。
僕は、古代のペルシア帝国のように、自由な民族の習慣や信仰、思想や民族文化、自分の信じたい神を信じられるような、それぞれの自由を認めた上での大きな共通の帝国、という発想が一番良いと思う。
だが、僕が考えるに、それは帝国のようにトップダウンで誰かが決めることではなく、自然にみんなの力で、ボトムアップ的に同じやり方を信じる人間たちの合意で成り立つべきだと思う。
そうすると、ある程度の共有の理念や理想は必要だ、ということになる。だが、それではペルシア帝国にはならない。ペルシア帝国は、それぞれの自由を与える代わり、平和的に制圧することで巨大な領地を獲得した。そこには、ゾロアスター教という偉大な宗教があった。
そういうわけで、自由にしながら多様性は認めるべきだが、共通の文化や理想は共有しているような、そういう正しい国を作らないといけない。
EUの問題とは、自由にするあまり、資本家や中流階級と、移民や難民の立場が平等にならなかったために、移民や難民を排除したくなった。本来助けるべきはずの移民を、助けるべきなのに皆追い返せと言う。それは、本当に犯罪者予備軍のようなイスラム系の移民もたくさん居るからである。
要は、自由にすればそれで多様性のある理想の社会にはならないが、それでも自由を求めていかなければ理想の社会にはならない、自由を失えば多様性が無くなるだけだ、ということである。
自分の問題とは、悪いことをしないことである。みんなこの馬鹿のことを信じきっているのに、この馬鹿は神を信じているせいで悪いことをしない。結果、みんながこれを信じるだけの良い国になる。
ユダヤ人が天才的なのは、そういう、王の上に神と聖書を作ったことである。王が絶対に悪いことをしない、それがイスラエルの普通である。その代り、みんな全員が悪くなる。
自分は、左翼や右翼のようなことを言うのは、自分のことを許して欲しいからである。自分で言って、それを許される、といった体験を繰り返し、繰り返しやりたくなった。それは、何か許せないものがあるからである。許してしまうと自分が壊れてしまうような、そういうものがどこかにある。それは決して学校のいじめのような低レベルでお子ちゃまな問題ではない。何かを許すことが出来ないのだと思う。それを許せば世界全体が滅亡してしまうような、何かを許すことが出来ない。だから、僕は文章をまだ書いて、「自分のことを許して欲しい」と訴えている。きっと、家族や友人にいつか何かをしたことが、尾を引いているのかもしれない。
必要なのは、共通の理想ではない。理想はそれぞれ違っていても悪くない。大切なのは、犯罪者予備軍の移民にも、さまざまな問題を抱えている人が居る、ということである。当事者であるヨーロッパ人には、それを考えて救うほどの寛大な人間は居ないかもしれない。だが、地球人や世界市民として、なぜ移民が悪いことをするのか、その問題の根源を解決しないといけない。そこにあるのは格差であり、資本主義である。社会主義にするか、日本にするか、考えないといけない。だが、移民は福祉政策にただ乗りしている。だから、福祉政策をやる平等な国になったとしても、問題は解決しない。本当に必要なのは、本当の平等である。平等が認められた時に、初めて正しい自由を作り上げ、築くことができるだろう。トランプのように、壁をただ作るだけでは、ただ壁を壊すだけである。
ただ、平等はそれで良いとして、問題は僕のように自由でなければ意味がないと考える人々も多い、ということである。悪平等をやりたい人間なんか居ない。資本家のビルゲイツから金を奪っても、その金は何年も奪い続ければゼロに戻ってしまうだろう。きちんと移民が自分で稼げるようになって、初めて多様性や自由を論議することができる。もちろん、ヨーロッパ人の中だけで自由をして、知性のある生活をすることは可能である。そこに、ヨーロッパ人だけの自由、ヨーロッパ人だけの多様性は生まれる。そして、それは悪いことではなく、そもそも社会の目的とはそうした「国の中での自由」を実現することである。これは、卵を焼くかハムを焼くか、どちらが出来るのが早いだけである、という問題に過ぎない。卵も焼きながら、ハムも焼かないと、ハムエッグは作れない。だから、ヨーロッパ人は自由をやって、アジア人は平等をやる、という発想は理にかなっている。米ソが対立して冷戦するのは、そもそも本来間違っている。悪いのは、対立して戦争に巻き込む米ソである。必要なのは、ヨーロッパ人が自由をやりながら、その自由をやる中でどのようにかして後進国イスラム教徒を支援することであって、不自由やテロはどちらも間違っている。そこがみんな気付いた時に、はじめてこの世界から対立や戦争は無くなるだろう。
そういうわけで、僕は一方では左翼を主張しながら、一方では自由の意味やかけがえのなさを唱える。本当に、この世界はそれぞれが出来るようにやらなければならない。必要なのは「個性」であり、才能とはほとんど99%個性という意味である。個性と自分らしく生きられる世界でなければ、世界は成立しない。この世界は金銭や信条における自由があった上で、その上で出来るだけ可能性のある自然に協力し共存する世界にならなければ、すぐに滅亡してしまう。戦争にならないようにするためには、自由を許すことである。みんなの自由が認められた上で、みんなで戦うのであれば、誰も悪いとは言わないが、独りだけが戦えと言って、政治家が結託して戦争するのであれば、それは皆悪いと言うだろう。そのような「声の権利」をどんどんあげていかないといけない。そうでなければ、国は良い国にならない。だからといって、批判ばかりしていれば良いわけではない。たくさんの意見があることは必要だが、批判に耐えて生きる必要はない。